『デッド・ドント・ダイ』を観た。
ジム・ジャームッシュのゾンビ映画『デッド・ドント・ダイ』予告編
コロナウイルスの影響で、私達が日常と思っていたものは形を変えていき、新たなパワーバランスを示しながら私達のことを包んでいる。それは水のように掴みどころのないものだったが、人間というのは適応力の高い生き物で、その変化を見事に日常として閉じ込めつつある。
映画で観たことがあるパンデミックが、現実のものとなれば、次に来るのはあれしかない。そうゾンビである。この人間の素晴らしい適応力をもってすれば、ゾンビが出現してもなんてこともないんじゃないかと思いがちな私の前に、最新のゾンビ映画が姿を表した。『デッド・ドント・ダイ』だ。監督は、、、ジム・ジャームッシュ。え、ジム・ジャームッシュ?『パターソン』とか『ナイト・オン・ザ・プラネット』の?前作では、ある町のバス運転手の日常を描いていたのに、今度はゾンビだなんて。ジャームッシュ的日常にゾンビがかけ合わさったらどうなるのだろう。この妄想で鼓動が高鳴っている時点で私の勝ちだ。
テイストはいたって、基本に忠実なゾンビ映画の世界観。センターヴィルという街を舞台に、あるトラブルの結果として現れたゾンビに対して、警察や市民の人々が巻き込まれていくというお話。そして気になるゾンビは、クラシックスタイル(ゆっくり歩きながら人々を襲う型)だ。ゾンビも多様化する現代において、のろのろと襲ってくるゾンビは愛おしくもある。このゾンビたちに相対する警察官を務めるのがアダム・ドライバーとビル・マーレイだ。ゾンビをぶった切りそうな方と、吸い込みそうな方で覚えると簡単だ。
ただ、作中のゾンビはひとつだけ独特な点がある。それは、生前の記憶に基づいた思考に縛られた行動を取っているということだ。カフェインを求めてダイナーに訪ねてくるゾンビ、Wi-Fiが入る場所を求めてスマホ片手にさまようゾンビ、お菓子をボリボリ食べ始める子供ゾンビなど、死してなお欲張りな彼らたちがおかしいのだけど、100%は笑えない。私もなにかに依存している自覚があるからだ。ちょっと抜けたゾンビ映画のようでありながらも、ふっと我に帰るメッセージを突きつけてくる。
私が作中のゾンビになったら、一体どうなるのだろうか。大好きなスパイスを取りにカレー屋さんに行くのか、それとも映画館に行って、ゾンビ映画を見るゾンビになるのだろうか。ソーシャルディスタンスを気にしないゾンビでぎゅうぎゅうの座席は、魂が飛ばせるなら観てみたいものである。みたいな妄想をしていたけど、私は引きこもり体質なので、ゾンビになってもおうちでダラダラしてるんだろうな。うめき声をあげてみたものの、管理会社経由でクレームが来るだけで終わりそうだ。死んでも怒られるってつらいなあ。ゾンビになっても日常は続いていく。