『シェイプ・オブ・ウォーター』を観た。
邦画を映画館で観に行くと、高校生の恋愛モノの予告編が必ずと言っていいほど流れる。最近は、オラオラ系と王子系(もしくは真面目系)の二人の男の子との狭間で揺れ動く私みたいなやつ。女子高校生を対象とした映画には、自分ごととして置き換えやすいいわば設定が多いのではないか。もちろんJKではない私は共感できるはずもなく、事務所的サムシングを感じているのは申し訳ないと思いながらその予告編を観ている。
ただ、と思う。共感できる恋愛って素晴らしい恋愛なのかと。定型的な設定の恋愛で満足してしまっていいのかと。恋愛なんて所詮は二人の間の話。これをものさしにしても実際の恋愛の細かいところが気になるだけで(この際、容姿がどうこうとかそういう話は取り上げても不毛だ)いっそ、自分の考えと対極にある恋愛映画を観て、「こういう恋愛もあるのか」と、その知見を広げたほうがより芳醇な恋を味わえるのではないか。制服を捨て、映画を観よ。…気づいたらJKがすぐスマホいじり出すような説教をしていたことは反省。
この『シェイプ・オブ・ウォーター』ではありふれている恋愛の対極を味わえる。1962年のアメリカが舞台。この当時は冷戦の真っ最中だ。清掃員として研究所に勤めるイライザが恋をするのは“研究対象"としてラボにやってきた魚人のような生物。研究所の中で下層にいるふたりの一見非現実な恋愛ストーリーだ。大人の童話のような世界観で表現されており、物語が進むたびにどんどん引き込まれていく。特に意思疎通のシーンが美しい。傷つくことに慣れた二人が少しずつ少しずつ近づいていく展開は、数少ない共感のシーンではないか。
主人公のイライザは、しゃべれないし、首に大きな3本の傷があるし、容姿も美しくない。恋愛映画上においては大きなハンディキャップだが、このハンデが、本作の愛の純粋さを際立たせているのも事実だ。彼女らの回りにいる友人たちもかっこいい。特に、同僚の清掃員ゼルダを演じるオクタヴィア・スペンサーの肝っ玉感。夫婦生活の愚痴をしこたまイライザにぶつけるのだけど、しゃべれない彼女の通訳もやってくれたりする。『ギフテッド』でも、主人公に理解を示すご近所さんを役やってたけど、もうこの人が味方にいるだけでなんでも立ち向かえそうな気がする。ゼルダは、よく足の不調を愚痴り、イライザはしゃべれない。まるで人間になった人魚姫のような特徴を持つ二人が物語の中で際立っている。
本作の主題歌が"You'll never know"というタイトルのものを使っているのもニクい。作中では、「どれだけあなたのことを想っているか決してわからないでしょう」とイライザが半魚人への想いをこの曲にのせて表現している。"You"が指すものを我々に当てはめると、イライザがこの愛に対して圧倒的な誇りを持っているような言葉に見えてくる。「あなたたちなんかにこの愛なんかわかるものですか!」と。全くそのとおりだ。こんな愛のかたちなんて凡人の私たちにわかるわけがない。他人の恋愛に共感するクセがいつの間についていた私たちなんて到底及ばない愛の美しさが描かれている。そして、そういう愛に憧れるのだ。共感なんていらない。かたちなんていらない。