砂ビルジャックレコード

カルチャーの住民になりたい

なんかいろいろ(副反応とかロロのフランケンシュタインとか)

この間、2回目のワクチンに行ってきた。私はせっかくだから(?)と東京都庁で受けることにした。家を出発して、電車を乗り継いで、新宿駅から徐々に都庁に近づいていくと、青空がだんだんと無彩色に覆われていく。頭の中で、RPG終盤で流れてきそうな荘厳で不気味な音楽を流しながら、システマチックに受付を済ませて都庁の中へ入る。

 

自分が脳内で鳴らしている音楽と係員の誘導以外は静かな都庁の1階は不穏だ。10人が乗れる体制にならないとエレベーターに乗せてくれない感じもなんだかゾクゾクする。性別も年齢も違う人達がひとつの箱へ乗せられる。本当に行く先は接種会場なのか?この10人から1人生き残りを決めろと言われるのではないか?もしかしたらこの無差別に集まった10人にはある共通点があって、それが主催者を暴く鍵になったりするのではないか?漂うデスゲーム感が心拍数を高める。

 

どうやら無事に、自分の乗った箱は接種会場へと到着して、2回目のワクチンを打たれる。経過観察のため、接種してから座って15分ほど待機するのだが、ふと、目をやると会場の端にあるモニターに東京オリンピックのハイライトがスライドショーで自動に流れている。スライドショー形式だから過去補正がかなりかかっているのか、それとも、全くオリンピック熱が冷めたのかわからないが、今年のイベントとは思えないほどの懐かしさを感じた。うまく説明できないんだけど、このあとすぐに都庁が壊れてしまう緊急事態が発生しても、あのスライドショーのモニターだけは瓦礫に埋もれても延々に再生され続ける気がした。

 

先人の教えの通り、接種してから約24時間後から副反応が体を襲ってきた。鎮痛剤を備えていたので、タイミングを見計らって飲んで、苦しむ時間を軽減することができたが、それでも鎮痛剤が効き出すまでの数十分間の倦怠感はきつかった。なかなか体調を崩せないここ2〜3年では、久しぶりのだるさが懐かしいけど懐かしがりたくない。静養するスケジュールだったので、読み進めていた「夏物語」を最後まで読みたかったのだけど、だるさが勝って、ひたすら寝込む。体調の悪いときは、ポカリとうどんに限る。どん兵衛のお揚げが年上の恋人のように優しい。

 

副反応もすっかりなくなり、ようやく普通の体調に戻る。買いすぎたレトルトおかゆの食べるタイミングは後で考えることにする。13日は梅田サイファーの東京ワンマンへ向かう。新木場スタジオコーストもとい、現在はUSEN STUDIO COASTが取り壊しになるようで、ここで見るライブもおそらく最後になる。このキャパでゲスとか岡村ちゃんを見れたことを懐かしく思う。そういえばagehaは行ったことがなかった。男子トイレにはコンドームが売っているのだけど、その自販機の跡だけが残っていた。スタジオコーストが本当になくなるんだ、と改めて気づかされる。

 

しかし、梅田サイファーの作り出す幸福な地元感よ。紳士的でありながら少年的。これこれ、こういう地元感であれば世間にどんどん発信して、共有されるべきだ。ふぁんくがいなくなったのは残念だったけども、きっちり帰る場所を残そうとする姿勢もますます好きになる。

 

いま思ったけど、U.CがU.S.C.でライブしてたんだな。

 

16日にロロのフランケンシュタインを見にいくこともあり、予習として、1931年の映画『フランケンシュタイン』を見る。概要は知っているが、映画としてちゃんと見るのはこれが初めてだった。フランケンシュタイン博士の作り出す怪物のおどろおどろしさに改めて気づく。怪物なのだから、人並みの言葉では表しきれない異形である必要があるわけで、それを首からボルトが飛び出た大柄の人というデザインを適解を叩き出していたなんて。

 

ショッキングだったのが、怪物が女の子と触れ合う場面だ。屋敷から抜け出して村へ降りてくる怪物は、ひとりで遊んでいた女の子と偶然出くわす。花を湖に浮かべて遊ぶ少女は純粋で、怪物への畏怖も感じていない。一緒に遊ぼうとする少女を、怪物は抱えて、その花のように少女を湖に投げるのだ!

 

少女が次に映画に登場するのは、父親の腕の中に抱かれているシーンで、少女は、だらんと両手両足が垂れ下がっている。父親は茫然自失の表情で、その少女とともに、人混みの中を歩き続ける。死者から生まれ、命を与えられた怪物が、命を与えられて間もない少女を簡単に奪ってしまう。フランケンシュタインってこんなにグロテスクな映画だったのか。

 

フランケンシュタイン』を見た翌日に、ロロ『Every Body feat.フランケンシュタイン』を見に行った。ベースはフランケンシュタイン=「死者の体を使って生まれた怪物の物語」ではあるのだけど、全く別の「生」と「死」と「創作」をめぐる傑作であった。

 

作中に登場する怪物の表現の意外性に驚く。3人の演者が絶え間なく混ざり合うようにして表現される怪物の表現は、舞台でしかできない方法だし、その観客がこれを「怪物」と認識するまでの異形性、グロテスク性はまさしく怪物であった。映画『フランケンシュタイン』の怪物が身体をパッチワークされたのに、対して、ロロフランケンシュタインの怪物は、魂がパッチワークされているようだった。この3人の肉体や魂の記憶を遡りながら、物語がすすんでいく。怪物と交流する少女も登場するし、予習してきたことは無駄ではなかった。

 

個人的に好きだったのが、足音をなくしたパジャマに似合う足音を探そうと、様々な瞬間の音を集めているライカの音から選ぶシーンだ。

秋には

落ち葉の上を、本のページがめくれる音で歩いて

冬には

氷上に除夜の鐘を響かせたい

春には

桜並木の足音は光の音色

夏には

砂浜はサイダーの弾ける音が似合うでしょ?

(『Every Body feat.フランケンシュタイン』/ロロ)

 

光や音の効果も合わさって幻想的な空間が広がる。ライカが録音した生活の音が、パッチワーク的にパジャマの足音になる。ライカが音を収集し始めたきっかけは、音が消えてしまうから、歌が死ぬから、で、考えてみれば録音行為は、ひとつの死に行くものを蘇生する術だ。死ぬはずだった音を別の音として蘇らせる行為はまさしく怪物生成なのだけど、こんなにも美しいのはなぜなのだろう。(そして、ぼくたちは蘇生された怪物たちに何度も触れていたことに気づく)

 

映画『フランケンシュタイン』は、「身体に命を宿らせる」ということが主目的だったから、嫌悪感が強い。そう考えると、過去の上に立ち、創作する行為にも罪があるように見える。ただフランケンシュタイン博士と違うのは、創作行為には、死に行くものの魂や、その死に行くものの思いに少しでも耳を傾けようとしているからである。

 

翌日、ようやく「夏物語」を読み終える。季節はすっかり秋になってしまった。