『由宇子の天秤』を観た。
最近、「パラダイスキラー」というゲームをした。主人公は、ある殺人事件の犯人を見つけるために、証拠を集めたり、登場人物から色々と聞き込みをしたりして、真実を見抜くゲームで、最後は裁判で、積み上げた事実をもとに容疑者を告発する。ゲームをすすめていく中で、なんとなく犯人であってほしくないキャラクターに出くわすと、不思議と、このキャラクターにとって有利なように、真実を推測している自分がいた。真実なんてそんなもんだ。残念ながら人間に生まれた以上、平等であることは非常に難しい。
『由宇子の天秤』は、事実と真実の難しさを痛感させられる映画だった。主人公は、ドキュメンタリーディレクターの木下由宇子。彼女は、とある高校での女子高生いじめ自殺事件を追っており、遺族にインタビューするなどして、ドキュメンタリー素材を集めていた。ドキュメンタリーの映像の構成については、マスコミ批判のトーンを出したい由宇子に対して、自己批判ではないかと再編集を命じるテレビ局と衝突したり、真相に光を照らすためには戦う職人だ。
まるで正義を人の形にしたような人物で、冷たいタイプなのかと思いきや、実家は個人塾を経営している。そのドキュメンタリーディレクターの仕事の合間を縫って、塾講師をつとめる父のサポートをしている。塾の生徒たちにもおやつの差し入れをしたりして、慕われている由宇子には、素晴らしいドキュメンタリーを制作してほしいと、思わず感情が彼女に傾く。
しかし、そのいじめ自殺事件を取材している最中に、由宇子の私生活において大きな問題が明らかになる。事件の外側にいる人物だった由宇子が、その事件では中心の人物となってしまう。ドキュメンタリー監督として、真相を見つけようとする自分の立場、そしてプライベートな問題で、真相が明らかになるかもしれない自分の立場に挟まれる葛藤が描かれる。衝撃的な事件に翻弄される由宇子を見ていると胸が壊れそうになる。
作中ほとんどが、由宇子中心の映像であるため、観客は由宇子の見た世界を通じて物語を知ることができるが、一方で、他の世界でも時間は進んでいるわけで。由宇子の見ていない部分で起こったことを、物語が進むにつれて聞かされることになるが、その言葉が事実か嘘なのかわからない。感情的だったり、悪意が見え隠れしたり、その人物の言葉を信じるべきなのか、己の中の天秤が試される。
2つの事件において、由宇子は何を知ったのか。そして、その事実をもとに、2つの事件の真実をどう表現したのか。由宇子の心の中の天秤が下した評決は、2時間の重厚なドラマの最後に待ち受けている。