砂ビルジャックレコード

カルチャーの住民になりたい

夏が来れば思い出す(『ミッドサマー』観たマン)

『ミッドサマー』を観た。そして今更書く。

www.youtube.com

 

「夏が来れば思い出す」という歌詞ではじまる童謡、「夏の思い出」の歌詞を見ても全然そんな景色を思い出として持ち合わせないことに気づく。水芭蕉も石楠花も、何色の花か知らないし、同様の理由でケツメイシの「夏の思い出」みたいに手をつないで海岸線を歩いたことや、プールに落ちる様子を逆再生した経験も持ち合わせていない。模範的な夏の思い出は私にとっては蜃気楼で、夏休みはもっぱらクーラーとアイス、甲子園の熱気、たまに素麺ぐらいで構成されていた。

 

この文章を書いている今は、5月の後半。夏の足音が徐々に聞こえてくて、太陽も顔を近づけてくる。子供の頃と同じように冷風を浴びているけども、今年は『ミッドサマー』のことを思い出していた。もう”あの頃”となりつつある2月の映画館が僕にとってのlast summerとなったからだ。

 

スウェーデンのある集落で開かれる90年に一度の祭りに行くことになった大学生5人組。5人の中で唯一の女性であるダニーは、自分以外の家族が一家心中したため傷心中であった。白夜の土地で行われる祭りや、その驚愕の文化によって、ダニーとその恋人・友人たちは徐々に心狂わされていくという話だ。

 

北欧に行ったことがないからか、私の中の北欧のイメージはどこか歪んでいるのかもしれない。IKEA、バイキング、ムーミンフィヨルドの恋人。結果、『ミッドサマー』によって、その歪みは確固たるものとなった。一面、緑が永遠と続くヘルシングランドの風景は、脳内でイメージ検索すると、最初の方に出てくる天国のようで、白い服を着ている集落の住人も天使に見えてくる。

 

ただ、環境というのは恐ろしいもので、夜の来ない世界、自分の生活世界と違う文化様式や価値観に死生観、さらには宗教観。それらが原因となって作中で発生する事件を目の当たりにしてしまうと、この天国が地獄に見えてしまうのが恐ろしい。主人公であるダニーや、その仲間が巻き込まれていくのだけど、心のどこかで「こういう宗教観もあるよね。文化の相違が起きたんだ」と丁寧に客観する自分もいるわけで。果たして何を善悪とするのかがわからなくなっていく。考えを巡らせながらも、客席である我々にも延々と光は降り注がれて、冬の真っ暗な映画館なのに、酷暑の日差しを浴びたような精神的ダメージを受けて、頭がぽーっとし始める。

 

 

夏が来れば思い出す。嬉々として踊りだすダニーの姿を。草花に囲まれるダニーの姿を。しかし、私がめまいのような症状を起こしつつ観た映像は、本当に『ミッドサマー』だったのか。『ミッドサマー』の映像が生み出した虚像なのかもしれない。夏の思い出は、いつだって蜃気楼。