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真実の真実性(『三度目の殺人』観たマン)

三度目の殺人』を観た。

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果たして、私はこの先の人生の中で何度、福山雅治という人物にかっこいいという感情を抱くのだろうか。もう飽きるほどかっこいいと思っているのにもかかわらず、同じ感情を抱いてしまう。頼んますから色気分けてくれ。

 

takano.hateblo.jp

 

そんな色気むんむんなマシャの最新作が是枝裕和監督の『三度目の殺人』だ。マシャは弁護士・重盛を演じる。殺人の前科がある容疑者・三隅(役所広司)が新たに起こした殺人事件の担当をすることになった重盛は、調査を開始する中で、新たな真実を知るミステリー・サスペンス映画である。法廷をめぐる重厚なドラマで、吹いてもいない冷たい風を感じるような作品であった。特にマシャと役所広司との面談室でのシーンがすさまじい。

 

本作で考えたくなるのは、“真実の真実性”だ。報道の内容、容疑者の証言、検事側の言い分、関係者だけが知っている事実。公になるもの、公にならないもの、信じたいもの、信じてはいけないもの。情報というのは本当に扱いづらいもので、手に入れた情報をもとに我々は“真実らしい”真実を作っていこうとするのだが、そこに嘘があればそれは真実ではない。しかし、司法があるからには、真実は作らなければならない。

 

この裁判における“真実”の作られ方が考えさせられた。ほぼ唯一、真実が公的となる場所だ。絶対100%の真実が作られる状況でない場合、何を真実とするのか、不都合な事実はどうするのか、天秤のようにつり合う結果を“真実”として収めるのか、真実製造工場としての裁判所が抱える不安要素というのを感じ取れる作品ではないか。

 

裁判所は真実メーカーだったのか。野菜のように「この真実は私が裁きました」みたいな顔写真付きの判例集が出て来る世界を想像した。