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人生ってワンカット(『1917 命をかけた伝令』観たマン)

『1917 命をかけた伝令』を観た。

 

www.youtube.com

 

1917年はロシア革命があった年ということを今でも覚えている。その理由はネタ番組で観たドランクドラゴンの家庭教師というコントだった。語呂合わせで歴史の年号を覚えるというくだりで、家庭教師役の塚っちゃんが「生稲晃子ロシア革命!」とボケる。当時ロシア革命のことを知らなかった私だったけど、その語呂の良さはキャッチーだったし、爆笑した記憶がある。そして、 僕らの世代にとって生稲晃子キッズ・ウォーのお母さんだった。

 

そんななか、この『1917 命をかけた伝令』のサイトを観たら、著名人のおすすめコメントの中に生稲晃子がいた。グッジョブ宣伝部。きっと宣伝部も誰かも家庭教師のネタを見ていたのだろうか。生稲晃子も観たこの映画、1917年の話なのだが、ロシア革命の話でもキッズ・ウォーの話でもなく、ワールド・ウォーの話である。ざけんなよ。

 

舞台は、第一次世界大戦下の西部戦線。イギリス軍は、後退したドイツ軍を追いかけようとするが、イギリス軍の航空偵察は、それが作戦であることに気づく。イギリス軍の前線は進撃中で、このままだと壊滅的なダメージを受けてしまう。前線に攻撃中止することを伝えるため、2人の青年兵士トムとウィルは伝令役として戦地を駆け抜ける、ある1日の話だ。

 

様々な死線を2人は越えていき、1日しかないロードムービー的な展開みたいでもある。悪衛生な水辺を越えたり、空になったドイツ軍の塹壕やトンネルをくぐりぬける。特徴的なのは、その移動の様子をワンカット風の映像にしているということだ。

 

敵側の領地に入っているのだから、いつ襲われても仕方がない。もしかしたら罠も仕掛けられているかもしれない。しかし、休息する時間などない。極限状態の中で、行動するトムとウィルを操作するコントローラーも持っていないわけで、われわれ観客は2人が無事に任務を遂行することを怯えながら祈ることしか出来ないのである。しかし、そんな2人の道中に大きな事件が起こる。ここから、サブタイトル的に付けられた「命をかけた伝令」という言葉の重みが増していく。

 

もし、このようなワンカット系の映画に魅了されたならおすすめしたいのが『ヴィクトリア』だ。これは正真正銘の140分ワンカット映画で、日常に近い中で、ある女性がトラブルに見舞われる作品だ。映画を見すぎて麻痺していたけど、人生にカットなんてものはない。すべてはつながっていく。戦争だって誰かのワンカットのある瞬間だったんだ。

 

takano.hateblo.jp

 

 

 

 

魂を背負っていきる(『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』観たマン)

『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』を観た。

 


グザヴィエ・ドラン最新作『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』特報

 

なんだか物の順序が気になってムズムズすることがある。たとえば、ブックオフの漫画コーナーで、並べられた漫画が5巻、6巻、6巻、7巻、6巻、9巻の順であったとき。きっとズボラな誰かが7巻を立ち読みを終えて、6巻と6巻の間にねじ込んだことが想像できる。こういう数字の順序の違和感はムズムズ度が高い。立ち読みしたズボラはちゃんと6巻と9巻の間に7巻戻せ!ってか買え!ってか誰か8巻売れよ!

 

そんなモノの順序に過敏かもしれない私の前に気になるタイトルの映画が現れた。『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』という映画だ。「…生と死」ではなく「…死と生」という順序なのだ。最初は見間違いかと思ったが、どうやら正しい。一体どういうことなのだろう。ムズムズする。

 

もしかしたら英語の表現では「死と生」という言い回しのほうがポピュラーなのだろうか。試しにgoogleで調べてみよう。"life and death"で検索したところヒット数は約 94,700,000 件。対する"death and life"は、約 40,900,000 件。件数で判断するとやっぱり「生と死」という言い方が英語でも多いようだ。そりゃそうだ。生きることから死ぬことは一方通行なのだから。では、なぜ「死と生」にしたのだろうか。ムズムズが止まらない。

 

本作の監督はグザヴィエ・ドラン。彼が「死と生」にした鍵を握っている。男性同士の恋愛や息子と母の確執などを話の中心に置くことの多い作家で、『Mommy』や『たかが世界の終わり』など私自身もドラン作品で好きなものも多い。

 

物語はタイトルにもなっているジョン・F・ドノヴァンという若手俳優が死んだというニュースが流れることから幕が上がる。2006年にニューヨークでそのニュースを聞いたターナーはイギリスに住む小学生の子役。このターナーは、一度もあったことのないジョンと文通していた。なぜ、ジョンはターナーと文通していたのか。そしてジョンの死には、どんな真相が隠されているのか。10年後、大人になったターナーが語り手となって話が展開する。

 

ジョンもターナーも、今までのドラン作品のようにどこか孤独な存在だ。スターである自分と本来の自分との差に苦悩するジョンと、いじめられっ子のターナー。それぞれの人生による悲喜交交がうっすらとリンクしていく。相変わらず孤独な人たちを包む暖かい光の描写が好きだ。

 

そして、やっぱり劇中に流れる音楽が素晴らしい。ひとつひとつのエピソードが音楽によってしっかりと記憶にこびりつく。映画を見た後にSpotifyでその挿入曲を聞きながら帰ったのだけど、まだ映画の中にふわふわ浮いているようだった。

 

そんなふわふわとした足取りの帰り道、本作について考える。まさしく、この映画は「生と死」ではなく「死と生」であって、芽生えていたムズムズはすでに消えていた。地球上の最後の一人にならない限り、誰かの死のあとにも、誰かの人生は続く。生きている者たちはいつの間にかその死を、その魂を背負って生きている。と、考えるとこれは「スターと少年の文通」という神話めいたものではあるが、いたってどこにある普遍的な人生の物語である。なぜ、ジョンは死んだのか。そしてそのジョンの死を背負ったターナーは10年後、どういう青年になったのか是非その目で見届けてほしい。

 

 

takano.hateblo.jp

 

 

テラスハウスとタピオカの話をしているけど私はギャルではない

ここ最近のテラスハウスの展開が恐ろしくて、次回以降がはやく見たい。今回のシーズンにおけるクライマックスであろう。新メンバーのにいにい(社長)が入居した途端からフルスロットルで持ち味を発揮しているからである。

 

狙っている女性に対して、押しの一手で攻めるのは各々の恋愛スタイルなのでとかくいうべきではないのだが、その距離の縮め方の中に性欲が隠しきれていないのだ。間接キスに直接キスに、チラシの裏に書いてあるような口説き文句たち。社長という肩書も相まって、その光景が自己陶酔に見えてくるのが恐ろしい。

 

そして、その行動が自分自身がかつて女性に対して行ったことがあるかもしれないと考えたときが本当に恐ろしかった。「仲良くなりたい」「付き合いたい」の欲望から突飛した欲望を見せないように抑制してたつもりだったけど、他人のを見るとこうも明らかなのかとゾッとする。今のにいにいは反面教師として非常に勉強させてもらっています。

 

 

テラスハウスという衆人環視的な特殊な環境上、色々な突然変異種が発生するのだが、今回のにいにいはそれに値するだろう。SNSでも裏表なく欲望を発信していて、すべてをさらけ出せる「超顕示派」とでも言おうか。シーズンが終わってからまたゆっくりと考えていきたい。

 

この前、タピオカミルクティーを飲んだ。お昼に入ったアジア料理のお店でデザートとしてついてきた。カップ一杯程度の大きさで、思わず「適量」とつぶやく。カップにはタピオカ用の太いストローが付いていて、それを使って飲んでいたのだが、どうも難しい。タピオカの量とミルクティーの量をちょうど五分五分の形で減らしたいけど、タピオカが残ってしまう。カップの底に残ったタピオカをひとつずつ狙いを定めて穴の中に入れて吸う。なんだか惨めだ。きっと店主は、私のタピオカを吸い込む音を聞きながらニヤニヤ笑っているに違いない。「こいつもタピオカ素人か」という落胆とともに。

 

でも、私はタピオカを吸うことはやめられなかった。デバッガーがバグを探すようにひとつひとつタピオカを吸い上げる。この行為を逆再生したら吹き矢になるな。ぶっ、と息を込めて厨房のコックにこのタピオカを当てようか、コックが口を開けたときがチャンスだ。のどちんこめがけてこの漆黒の弾丸を発射させるのだ。いや、そもそもコックに罪はない。

 

吹き矢といえばごきげんよう「吹き矢コント」のくだり面白かったなあ。子供の頃何回真似したんだろう。そんなことを頭で考えていたらタピオカを吸い終わっていた。時刻は13時20分ごろ。頭の中に席替えのチャイムが鳴った。出演者が自分の飲み物を持って移動するように、私は伝票を持ってレジへ向かう。支払いを済ませて店を出る瞬間、その店の玄関にライオンの置物があることに気づいた。