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魂を背負っていきる(『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』観たマン)

『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』を観た。

 


グザヴィエ・ドラン最新作『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』特報

 

なんだか物の順序が気になってムズムズすることがある。たとえば、ブックオフの漫画コーナーで、並べられた漫画が5巻、6巻、6巻、7巻、6巻、9巻の順であったとき。きっとズボラな誰かが7巻を立ち読みを終えて、6巻と6巻の間にねじ込んだことが想像できる。こういう数字の順序の違和感はムズムズ度が高い。立ち読みしたズボラはちゃんと6巻と9巻の間に7巻戻せ!ってか買え!ってか誰か8巻売れよ!

 

そんなモノの順序に過敏かもしれない私の前に気になるタイトルの映画が現れた。『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』という映画だ。「…生と死」ではなく「…死と生」という順序なのだ。最初は見間違いかと思ったが、どうやら正しい。一体どういうことなのだろう。ムズムズする。

 

もしかしたら英語の表現では「死と生」という言い回しのほうがポピュラーなのだろうか。試しにgoogleで調べてみよう。"life and death"で検索したところヒット数は約 94,700,000 件。対する"death and life"は、約 40,900,000 件。件数で判断するとやっぱり「生と死」という言い方が英語でも多いようだ。そりゃそうだ。生きることから死ぬことは一方通行なのだから。では、なぜ「死と生」にしたのだろうか。ムズムズが止まらない。

 

本作の監督はグザヴィエ・ドラン。彼が「死と生」にした鍵を握っている。男性同士の恋愛や息子と母の確執などを話の中心に置くことの多い作家で、『Mommy』や『たかが世界の終わり』など私自身もドラン作品で好きなものも多い。

 

物語はタイトルにもなっているジョン・F・ドノヴァンという若手俳優が死んだというニュースが流れることから幕が上がる。2006年にニューヨークでそのニュースを聞いたターナーはイギリスに住む小学生の子役。このターナーは、一度もあったことのないジョンと文通していた。なぜ、ジョンはターナーと文通していたのか。そしてジョンの死には、どんな真相が隠されているのか。10年後、大人になったターナーが語り手となって話が展開する。

 

ジョンもターナーも、今までのドラン作品のようにどこか孤独な存在だ。スターである自分と本来の自分との差に苦悩するジョンと、いじめられっ子のターナー。それぞれの人生による悲喜交交がうっすらとリンクしていく。相変わらず孤独な人たちを包む暖かい光の描写が好きだ。

 

そして、やっぱり劇中に流れる音楽が素晴らしい。ひとつひとつのエピソードが音楽によってしっかりと記憶にこびりつく。映画を見た後にSpotifyでその挿入曲を聞きながら帰ったのだけど、まだ映画の中にふわふわ浮いているようだった。

 

そんなふわふわとした足取りの帰り道、本作について考える。まさしく、この映画は「生と死」ではなく「死と生」であって、芽生えていたムズムズはすでに消えていた。地球上の最後の一人にならない限り、誰かの死のあとにも、誰かの人生は続く。生きている者たちはいつの間にかその死を、その魂を背負って生きている。と、考えるとこれは「スターと少年の文通」という神話めいたものではあるが、いたってどこにある普遍的な人生の物語である。なぜ、ジョンは死んだのか。そしてそのジョンの死を背負ったターナーは10年後、どういう青年になったのか是非その目で見届けてほしい。

 

 

takano.hateblo.jp