砂ビルジャックレコード

カルチャーの住民になりたい

身体的障壁と大人への障壁(『37セカンズ』観たマン)

『37セカンズ』を観た。


映画『37セカンズ』予告編

 

スマートフォンをいじりながら「ああ、もうこんな時間が経っている」の気づきを、人生であと繰り返すのだろう。でも、この数分の無駄も明日になれば忘れてしまう。最短で1時間後には忘れている。無駄遣いの時間を秒に換算すると大きい数字になるなと思いながら、軽く落ち込んだ自分を諌める。(結局、忘れちゃうんだけど)

 

『37セカンズ』というタイトルの映画を観た。37秒はおよそ男子100×4リレーの世界記録のタイムと同等である。これは、本作の主人公であるユマという女性が、生まれたときに呼吸をしていなかった時間であり、この37秒間の無呼吸によりユマは脳性まひという障害を抱えることになる。

 

この映画の一番の特徴は実際に脳性まひの女性がユマを演じているということだ。演技だけでは表現できない身体的な制限が画面いっぱいに映し出される。例えば、冒頭の入浴シーン。ひとりでどうすることもできないユマの身体を母親が必死の形相で洗う。知り合いにこのような障害を持っている人がいない私にとっては、それがルーティーンであることが衝撃的であった。かといって障害者だから...ということを大事にしている映画でもないと感じた。あくまでサラリと脳性まひをもつ若い女性を描いている。

 

物語は漫画家を夢見るユマが、編集者のふとしたアドバイスから未知の世界に興味を抱くことから展開する。車椅子の移動制限、身体が自由に動かないという肉体的葛藤、檻(=親の愛情)に囚われたヒロインとしての精神的葛藤と戦いながら向き合いながら、自分のアイデンティティを探しに行く。ユマの一挙手一投足が次の物語を読んでくる展開は美しく、ストレスなく没入することができる。

 

車椅子ならではの目線をカメラワークの表現が刺激的だ。あることがきっかけで、主人公は夜の繁華街へ繰り出すことになるのだが、ローアングルで観た繁華街のきらびやかなネオンが別世界に見えてくる。そういえば大人の身長の目線でしか夜の繁華街を歩いたことがなかったことを気づかせられる。歌舞伎町ってオリエンタルランドが運営してるんだな。

 

障害者ならではの苦悩や経験は、ユマという女性を通じて知ることができる一方で、大人の階段を上るうえでの恥ずかしさや自由への渇望といった、かつて自分も通り過ぎたあのときの感情に共感を覚える。そんな身体的障壁と大人への障壁に、あの手この手でぶつかっていくユマを愛せずにいられない。この気づきと共感が両方に押し寄せてくるのが『37セカンズ』の一番の魅力である。いつも無駄な時間を過ごしてしまいがちな私だが、この映画館で過ごした115分は確実に人生の有用な時間となった。

 

テレビの向こうは何がある(『さよならテレビ』観たマン)

『さよならテレビ』を観た。


薄っぺらいメディアリテラシーはもういらない!映画『さよならテレビ』予告編

 

メディアに関するWebの記事やツイート限りの情報だが、テレビの主な視聴層は60代以上で、テレビ局もそれをターゲットにした番組作りをしているらしい。それより下の世代になると、ネットを中心に情報を収集しているとのことだ。(だって、現にテレビの視聴層についての情報をネットで仕入れている私がいる)もちろん、ネットばかりで情報の偏りを避けるために、マスメディアであるテレビを見ている人も多いと思う。

 

ネットに玉座を奪われつつも、テレビの影響度は未だおそろしい。Twitterで急上昇ワードトップ10には、必ず放送中のテレビ番組の内容が入ってくる。朝から昼にかけては大体、情報番組でのコメンテーターの炎上発言、夜は好きなアイドルや俳優が出演しているドラマの感想が占めていて、深夜になれば海外スポーツに関するツイート。上手に2つのメディアに浸かりながら素敵な消化活動をしている。そんな中で思う。テレビってなんだろう?

 

『さよならテレビ』はインターネットが主流となった時代に改めて、テレビの役割や報道番組の在り方を考える東海テレビ制作のドキュメンタリー作品だ。東海テレビの報道部に固定カメラを置いて、日々の仕事風景や、働く人々、そこで起こるトラブルなどテレビ制作現場の決して見えない部分に光を当てている。

 

若手記者のドタバタや、夕方のメインキャスターの苦闘っぷり、視聴率至上主義の現状などが画面を通して伝わってくるし、東日本大震災時に問題となった「セシウムさん」事件に触れるくだりもあったり、東海テレビの今を知るには良い作品だ。去年にドラマ化され話題となった『チャンネルはそのまま!』はテレビ制作の裏側を陽的エネルギーを保って描ききった作品であるのに対し、『さよならテレビ』はシリアスな雰囲気を漂わせたドキュメンタリーなのだ。そう、「ドキュメンタリー」、、、なのだ。

 

「ドキュメンタリー」とはなんだろうか。そこに映し出されているのは真実ではあるが編集されていたもの。そこには作り手の意図やメッセージが入っていることを無視してはいけない。他人が、明確な目的もなくアップしたリアルが簡単に見られる時代に、ドキュメンタリーという限りなくリアルに近いリアリティの存在意義を考える。自分の知らない景色だからこそ、それを鵜呑みにしてしまう危険がある。受け手である私たちのリテラシーも試されているのだ。画面に当てると嘘かどうかわかるライトがあればいいのに。

 

 

VS virus

コロナウイルスの影響がすさまじい。特に、映画、音楽、スポーツが好きな私にとっては大打撃である。行く予定だったライブも延期になり、当日は申し訳無さそうにカレンダーアプリがその日の予定を通知してきた。

 

そういう週末の楽しみだけでなく、日常にも脅威が迫ってきている。マスク、ティッシュ、トイレットペーパーが買い占められていて、最寄りのスーパーに行ったら、インスタントラーメンまでも空の棚になっていた。みんな中国人観光客が少なくなったからって爆買いしているなあと思いながら、私は惣菜を買って帰った。

 

ふと、ゾンビ映画を思い出す。ゾンビ映画では体力回復ポイント的に無人のグロサリーマーケットで好きなだけ食料をかっぱらうシークエンスがよくある。このコロナウイルスによる生活者のパニックから考えると、もし、本当にゾンビ騒ぎが起きたときに、あんな悠長に陳列されていることはないはずだ。なんだか悲しくなる。自分がゾンビから逃げ回る運命になったら真っ先にやりたいことなのに。カートにヒロインを乗せて広い広い売り場を走り回りたかったのに。

 

人間というのはたくましいもので、この行動自粛モードを逆手にとったパフォーマンスもあるわけで。一番痺れたのは3/1のNUMBER GIRLの生配信。正直、有名どころの3〜4曲しか知らなかったけど、視聴者のチャットも相まってすさまじい熱量だった。サプライズは森山未來の登場。昨夜だけで「OMOIDE IN MY HEAD」のパートを何回観たことか。ライブハウスでたったひとりで踊り狂う森山未來のなにかしらの筋肉の一部に憑依したかった。

 

森山未來熱が急に騒ぎ出して、ドラマ『モテキ』で「NUM-AMI-DABUTZ」で奇跡のダイエットを遂げる藤本幸世を観て、すぐさまフジファブリックの「夜明けのBEAT」で舞う森山未來の姿を楽しんでいた。この夜は眠るのに少し時間がかかった。