『たかが世界の終わり』を観た。
私の最近好きな監督、グザヴィエ・ドラン師匠の最新作の公開日がとうとうやってきたのです。この日のために仕上げ(初回上映をいい席で予約)てきました。少しの眠気を残しながらも、テンションは上々。
ドラン、おれだー! #movie #itsonlytheendoftheworld #xavierdolan #たかが世界の終わり
劇作家のルイは、家族に“あること”を告げるために、12年ぶりに帰郷する。そのルイを出迎える家族(母親、兄、兄の妻、妹)との、ある1日を切り取った物語。見ているこちらも息苦しくなるほどの濃厚な密室劇。
じっくり物語がすすむので、その世界に入り込むのは難しく感じたが、振り返ってみればわかりやすい物語構成であった。冒頭にルイが帰郷し、家族と再開するパートでは、登場人物とルイとの関係性をきっちり紹介。そのあとルイと各キャラクターとの1対1の会話で、そのキャラクターの想いが明らかになり、物語が加速していく。
母親のマルティーヌは、ルイが帰ってくるにあたって食事でもてなすのだが、これが物語の大きな流れを作る効果を担っている。オードブル、メイン、デザートと“三幕構成”で、調理中に物語がじわじわ動き出し、(お母様がたっぷりと時間を費やして料理をなさる)家族全員が揃うと、その物語がひとつクライマックスを迎える。その仕組みが実に緻密なのだ。恐るべしドラン師匠。
不思議なのが、主人公であるルイが“徹底的に受け身なコミュニケーション”をとっていることである。ある決意を持って帰ってきた主人公なのに。ルイの周りにいる人々が、ルイをきっかけに騒ぎ出す物語なのである。そう考えると、あくまでもルイは、この物語における触媒にすぎないのかもしれない。
ただ、一方であまりに受動者なために、この空間におけるもうひとつの受動者=観客とリンクするはたらきがあるのではないだろうか。なんだか私は、決してルイに感情移入しきってはないけども、想いや考えを不器用に伝えてくるルイの家族に、心がズドンときてしまう。特に1対1の会話パートで胸が詰まってしまう。『たかが世界の終わり』の世界にどっぷり浸かりながら、ふと、自分の家族と、ルイの家族をうっすら重ねてしまっている私がいることに気づく。ルイのような状況で、我々は家族に何を求めるのだろうか。
そして(ドラン映画では当たり前ではあるが)劇中でかかる音楽が今回もかっこよくてかっこよくて!日本でも流行ったO-Zoneの「恋のマイアヒ」など耳馴染みのある音楽も流れるし、重苦しい密室劇で清涼剤のような役割も果たしている。毎度のことながら、音楽と映像(相変わらずの色彩に惚れ惚れするが、特に青色の美しさ!)のマリアージュに酔いしれる。はやくサントラを買いに行かなければならない。
ドラン大好きおじさんとしては、兄のアントワーヌと、『トム・アット・ザ・ファーム』のフランシスとの共通項とかを考察したら楽しいんだろうなあなんてニヤニヤしながら、このブログを締めくくりたいと思います。
あ、あとこれだけ言わせてください。レア・セドゥみたいな妹がいてほしい。