砂ビルジャックレコード

カルチャーの住民になりたい

M-1グランプリ2018の感想を書かせてください

気づけばこの季節がやってきて、そしてあっという間に過ぎ去ってしまったM-1勝戦。今年も素人ながらグダグダ言いたいことがあったので書かせてください。私は所用があったのですが、なんとかスタート間近に帰宅。本戦から視聴しました。

 

去年からルール変更はなし。もう笑神籤に適応しちゃってる芸人さんのみなさんが素晴らしい。とはいえ、1番で出た見取り図はかわいそう、、、ってなっちゃう。誰も悪くないのに。こんな方法思いついた放送作家だけはお尻ペンペンの刑ですね。去年からの恨みは消えませんでした。

 

なかなか大爆発が起きないもやっとした前半から中盤の流れ。こんな展開ははじめてだったんじゃないかな?4番ジャルジャルのネタも面白かったんだけど去年のピンポンパンゲームのイメージが強すぎて、それを超えられなかったなあというのが個人的な感想(ピンポンパンゲームのアプリまだやっている)。

 

結果的に見れば後方の順番の霜降り明星と和牛がワンツーになる結果に。霜降り明星は最初から2発続けて大きい語彙を使ったツッコミが当たったからそこで空気をものにした感じだった。語彙の力で掛け合いの技術をねじ伏せたのだ。豪華客船という様々な人々が集う場所を設定とし、色々な人間をせいやに落とし込み、それをひたすら粗品が斬っていく。優勝した学校も特定多数の人が集う場所だ。そのシステムを信じて突き進んだのが良かったのだろう。

 

和牛はなんなのか、M-1の見えない力に弄ばれているとしか思えない。笑い飯もそうだし、わ行の実力者は報われない運命なのだろうか?一本目のゾンビのネタも、”役柄の交代”という漫才で定番の展開を見せながらも、「ゾンビウイルスが感染する」というゾンビ映画のお決まりを利用して、「実は先に感染していた」と、伏線を回収したのは素晴らしかった。ネタの設定チョイスに感心してしまった。

 

そう、和牛で特筆すべきは展開のつなげ方が群を抜いて美しかったことである。決勝の「オレオレ詐欺」のネタでも1回オレオレ詐欺の全体の流れを見せながら、2週目でさらなる展開に持っていく。その2回目の導入見た?水田さんが「ロケの合間で来た」と距離を起きながら、すっと2週目がはじまる。観客はその後の流れを一度学習しているから和牛は説明せずに、1週目のボケにかぶせることができるのだ。とにかくこのシームレスな展開のつなぎ方と発展させ方に感動してしまった。最後の「もうええわ」の芸術点◎

 

展開の良し悪しが決勝経験組の明暗を分けたと思う。スーパーマラドーナは田中さんが強く扉を閉めたところがピークでそのあとは「正常な狂気」vs「狂った狂気」の戦いが平行線で続いたままだった。たとえば田中さんがカレーを振る舞いたかった理由などをサブストーリーラインで作るともう少し深みが増したんじゃないかなあと。あくまで素人意見です。

 

一方、展開に縛られすぎたんじゃないかな?ってのがゆにばーす。設定が「遊園地にロケ行ったらカップルと間違われる男女コンビ」ってもうねじりすぎた状態から始まってるもんだからついていけない。展開自体はしっかり考えられてて途中の古風な漫才をするというのは裏切られたんだけど、裏切られる前の土台が前衛的すぎちゃったなあという感じ。

 

ミキはいい意味でも悪い意味でもお茶の間向けの漫才といった印象。他人に履歴書送られるなんてジャニーズ以外しかないでしょ。想像の範囲内でまとまってしまったというか。もっとヒヤッとする言葉のチョイスが出来たでしょうに。

 

トム・ブラウンはほんとうに順番がよかった。みんながいろんなネタを見て疲れているなかで「何を見させられているのだろう?」と麻痺されている感覚が最高だった。会場の空気を変えてしまった漫才だったと思うし、それで霜降り明星の爆発につながったんだと思う。(明星の爆発って天体感出たね。)トム・ブラウンは、あのシステムがわかってくるとニヤニヤしちゃうんだよね。いい意味のネタバレ感。

 

ああ、また1年後。早く来いとも思うし、小宮さんの「松ちゃん待っててね〜」が聞きたいけども、もう1日1日がゆっくりすぎて芸人さんたちが最高のネタを作れる時間が増えてほしいとも思う。あんな緊張感の中、高クオリティのネタを高クオリティのパフォーマンスでできる芸人さんたちは本当に国宝だ。

 

そしてこの1週間後に行われるTHE Wがほんとうに不憫でならないのです。

 

湖の底を知りたい(『アンダー・ザ・シルバーレイク』観たマン)

アンダー・ザ・シルバーレイク』を見た。


映画『アンダー・ザ・シルバーレイク』予告編

 

初めて見た映画なのにどこか既視感を覚えることがある。そう、それは例えば、過去に見た映画と同じロケ地であったり、同じもの・概念が物語のヒントだったりする。そこに我々は共通性を生み出し、文脈を感じる。頭の中で整理するとき同じタグをつけるから必然的に、そのタグを媒介して知識の海が少しずつ広がっていく。

 

アンダー・ザ・シルバーレイク』はロサンゼルスの街、シルバーレイクを舞台にしたとろけたくなるミステリーだ。主人公は堕落した青年のサム。そんなサムの近所に美女が住んでいることがわかり、彼は美女に心を奪われてしまう。逢瀬の約束をとりつけるなど意気揚々のサムだったが、 突然、近所に住んでいた美女がいなくなる。もぬけの殻となった住居の壁には謎の印があるなど意味がありげだ。サムはその美女の居場所を突き止めようと行動をはじめる。その捜索のなか、サムは、この街に隠された真実に近づいていく。

 

と、あらすじだけ書くと「失踪した美女と、街に眠る謎の正体」を暴くミステリーなんだが、いや、たしかにミステリーなんだけども、この映画は一筋縄ではいかない。その本筋のまわりに幾重にも巻き付けられた周辺の情報に心を奪われてしまう。たとえば突然あらわれる謎の男、なぜかつながる暗号たち、秘密のパーティー、家の近くのスカンク、、、、心の中で整理しようと思っているんだけども、気づけば次の展開で新たな謎が心の中を荒らしていく。つながるようでつながらない、、ああ頭の中はぐるぐるぐるぐるグルコサミン。

 

ロサンゼルスが舞台というのは、この映画を「解釈」する上でのひとつの暗号になる。ハリウッドなどエンターテインメントの総本山である一方で、その頂点で暮らせる人はホント一握りだ。夢に勝ち負けがある街だ。(『ラ・ラ・ランド』で学んだ)そんな街で暮らすサムも立派な負け組に見える。

 

というかサムがやべえ。家賃は払えないし、仕事をしている場面なんか微塵も登場しない。明日にはホームレスになるかもしれないというのに、ホームレスを軽蔑しているところなど最高にクズだ。元カノは広告看板のモデルになっているし、世の中には"自分以外"の作品や仕事でキラキラと溢れている。徹底的な負け組だからこそ、人生の諦めに近い感覚で、その美女を取り戻すことに魅了されていく。そのクズの性欲、自己顕示欲、一発逆転欲が程よく最悪に混じり合って、彼は底なしの湖に陥る。ここまで純粋な現実逃避は観たことがない。

 

そして、シルバーレイクの謎を解き明かそうとするサムもなかなかにキツい。妄信的というか、主人公気質がえげつない。自己顕示欲たっぷりボーイだ。彼を少し俯瞰的に見れば、勝手に美女を探そうとし、勝手に暗号を解き、勝手に解釈し、勝手に真相(らしきもの)に近づいた(気になっている)男なのだ。なんでこんな自慰行為を見させられているのだろう。しかし、映像感覚の美しさに観客は席を立てない。どころか一緒に湖に落ちていきたくなる。

 

「この暗号は、〇〇を示唆している!」なんて映画の真相や裏側を知りたいとする我々そのものではないだろうか。ある意味サムは観客代表のクズでもある。「解釈」の仕方で、陰謀論的な映画にも、ただのナンセンスコメディ映画にも位置付けすることができる。解釈の余白を与えられ、そこで踊り狂ってしまった時点で我々はとっくにこの映画の虜なのである。 

 

全地球捜索型ミステリー(『search/サーチ』観たマン)

search/サーチ』を観た。

 


映画『search/サーチ』予告編

 

"しばり"のある映画にわくわくする。団鬼六的な意味ではない。映画の自由さにわざとルールを設ける映画だ。最近だと140分の映画がワンカットで進行される『ヴィクトリア』や、全編FPSのアクション作品『ハード・コア』などが代表的なものか。現代から振り返ってみると、昔のサイレント映画もひとつの”しばり”のある映画とも言える。

 

そんなしばり映画系に新しい傑作が誕生した。全編PC画面という"しばり"を設けた「サーチ」だ。気づけば僕らの生活における視線のほとんどは液晶に奪われっぱなしだ。たとえ映画を見るとしても、スクリーンより液晶を見るときのほうが多い日さえある。それでスクリーンに映画を見に行こうってなって、全編がPC画面なんてもうこれはMだ。デジタルマゾヒストを自称していい。

 

で、この最大画面のPCで行われるのは、娘の捜索である。深夜にかけてきた着信を残して突如消えてしまった娘のマーゴットを探すため、父親のデビッドは彼女の交友関係から手がかりを見つけようとする。なりふり構ってられない彼は、マーゴットのPCを使ってSNSのつながりや、過去の通信履歴から所在地を探していくが、個人のPCなんて秘密の宝庫だ。秘密の点と点が連なっていくと、そこにはデビッドの知らないマーゴットの姿が浮かび上がる。

 

まず、冒頭の10分ほどの映像がとにかく泣けるのだ。いきなり現在からでなく、Windows XPの画面から物語が始まるのが非常にニクい。良好な家族の象徴として画面上に現れるのは、世界一見られていたであろうあの野原とそれぞれの写真が並べられたアカウント選択場面だ。(そして、家族それぞれ変顔をアカウントとして選択しているのが◎)

 

ブラクラやフラッシュなどのPCあるあるもふんだんに盛り込みつつ、Macの画面になって話が始まる。XPの発売が2001年だから、ここ15年ぐらいのPCの歴史、遷移が表現されているとともにマーゴットが高校生になっていく様子を追体験できる。軽い親戚気分だ。そっか、XPは家族で1台の時代だったのに、今や個人のスマホで1台、個人のノートパソコンで1台が当たり前になったんだもんなあ。ああ俺も年取ったなあと、やがて絶滅危惧種になるダイヤルアップ接続経験世代はしみじみと時の流れを感じるのです。

 

そして、要となるミステリー部分も非常に重厚で張り巡らされた伏線がにハッとする。 そもそも探す主な手段がインターネットというのもミステリーとしては結構特殊ではないか。仮面ライダーWのフィリップ以来の解決方法ともいえる。

 

この探索中でもPCあるある(パスワードがわからない→昔使ってたフリメに届く→そのフリメのパスがわからない)などを踏まえながらデビッドはひとつひとつ真実に近づいていく。非常に巧みだと感じたのが、心情の表現だ。我々観客は第三者でありつつも主人公目線である画面を通して本編を知る。たとえば誰かにメッセージを入力して、送信ボタンを押す前のためらい、そして削除して平易な言葉に書き換える。本来の書き手の心情と、それを露わに出してはいけないという理性が、あのリライトだけで表現されるのがとてもクールだ。知らず知らずのうちにデビッドに没入している自分に気づく。

 

 

いっそ、全編PC画面で話が進むのなら、ブルーライトメガネで見るという誰にも伝わることのないボケをすればよかったね。(後悔)