砂ビルジャックレコード

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湖の底を知りたい(『アンダー・ザ・シルバーレイク』観たマン)

アンダー・ザ・シルバーレイク』を見た。


映画『アンダー・ザ・シルバーレイク』予告編

 

初めて見た映画なのにどこか既視感を覚えることがある。そう、それは例えば、過去に見た映画と同じロケ地であったり、同じもの・概念が物語のヒントだったりする。そこに我々は共通性を生み出し、文脈を感じる。頭の中で整理するとき同じタグをつけるから必然的に、そのタグを媒介して知識の海が少しずつ広がっていく。

 

アンダー・ザ・シルバーレイク』はロサンゼルスの街、シルバーレイクを舞台にしたとろけたくなるミステリーだ。主人公は堕落した青年のサム。そんなサムの近所に美女が住んでいることがわかり、彼は美女に心を奪われてしまう。逢瀬の約束をとりつけるなど意気揚々のサムだったが、 突然、近所に住んでいた美女がいなくなる。もぬけの殻となった住居の壁には謎の印があるなど意味がありげだ。サムはその美女の居場所を突き止めようと行動をはじめる。その捜索のなか、サムは、この街に隠された真実に近づいていく。

 

と、あらすじだけ書くと「失踪した美女と、街に眠る謎の正体」を暴くミステリーなんだが、いや、たしかにミステリーなんだけども、この映画は一筋縄ではいかない。その本筋のまわりに幾重にも巻き付けられた周辺の情報に心を奪われてしまう。たとえば突然あらわれる謎の男、なぜかつながる暗号たち、秘密のパーティー、家の近くのスカンク、、、、心の中で整理しようと思っているんだけども、気づけば次の展開で新たな謎が心の中を荒らしていく。つながるようでつながらない、、ああ頭の中はぐるぐるぐるぐるグルコサミン。

 

ロサンゼルスが舞台というのは、この映画を「解釈」する上でのひとつの暗号になる。ハリウッドなどエンターテインメントの総本山である一方で、その頂点で暮らせる人はホント一握りだ。夢に勝ち負けがある街だ。(『ラ・ラ・ランド』で学んだ)そんな街で暮らすサムも立派な負け組に見える。

 

というかサムがやべえ。家賃は払えないし、仕事をしている場面なんか微塵も登場しない。明日にはホームレスになるかもしれないというのに、ホームレスを軽蔑しているところなど最高にクズだ。元カノは広告看板のモデルになっているし、世の中には"自分以外"の作品や仕事でキラキラと溢れている。徹底的な負け組だからこそ、人生の諦めに近い感覚で、その美女を取り戻すことに魅了されていく。そのクズの性欲、自己顕示欲、一発逆転欲が程よく最悪に混じり合って、彼は底なしの湖に陥る。ここまで純粋な現実逃避は観たことがない。

 

そして、シルバーレイクの謎を解き明かそうとするサムもなかなかにキツい。妄信的というか、主人公気質がえげつない。自己顕示欲たっぷりボーイだ。彼を少し俯瞰的に見れば、勝手に美女を探そうとし、勝手に暗号を解き、勝手に解釈し、勝手に真相(らしきもの)に近づいた(気になっている)男なのだ。なんでこんな自慰行為を見させられているのだろう。しかし、映像感覚の美しさに観客は席を立てない。どころか一緒に湖に落ちていきたくなる。

 

「この暗号は、〇〇を示唆している!」なんて映画の真相や裏側を知りたいとする我々そのものではないだろうか。ある意味サムは観客代表のクズでもある。「解釈」の仕方で、陰謀論的な映画にも、ただのナンセンスコメディ映画にも位置付けすることができる。解釈の余白を与えられ、そこで踊り狂ってしまった時点で我々はとっくにこの映画の虜なのである。