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何回シティーボーイ言うねん(『さよなら、僕のマンハッタン』観たマン)

さよなら、僕のマンハッタン』を観た。

 


『さよなら、僕のマンハッタン』予告編

 

まことに恥ずかしながら自分のことをシティーボーイだと思っている。とはいっても所詮、横浜・東京だけに生息している程度のシティーボーイで、King of Cityであるニューヨーク・マンハッタンには行ったこともない。シティーボーイを自称しているからにはいつかは行かないとね、って思ってるんだけども太平洋を渡りきる勇気がまだまだ足りないのだ。

 

勇気を貯めるためには、本場のシティーボーイを学ぶのが近道だ。そんな私にちょうどいい映画があった。この『さよなら、僕のマンハッタン』、原題が"The Only Living Boy in New York"というんだから間違いない。これを観て、僕はKing of City Boyへとのぼり詰めるのだ!

 

主人公は見るからに(POPEYEで表紙飾ってそうな)シティーボーイのトーマス。ニューヨークっ子のトーマスに、不思議な隣人が出来たころから物語が動きはじめる。女友達とともに父親の浮気現場を目撃したり、その愛人を尾行したりと、ニューヨークを縦横無尽。不思議な人間関係が生まれつつ、トーマスはその繋がりに翻弄されていく。このトーマスのかけている眼鏡がかっこいい。今すぐ欲しい。これをかけてNYC Boyに変身したい。

 

大都市ニューヨークの街並みは美しいが、この映画の冒頭で嘆かれているように商業主義に制圧されてしまった部分もあるそうだ。便利や流行の類義語は無個性だ。そう考えるとトーマスもといシティーボーイなんてものは、清潔感と多少の教養を持った容れ物にすぎない。無個性の象徴として無個性の街を歩き続けている。ぼくたちシティーボーイにはそこまでの求心力なんて無い。

 

だからこそ、トーマスが直面する刺激的な展開にニヤニヤする。謎の隣人や父親が抱えていた秘密にたどり着いたとき、シティーボーイからひとつ殻を破った新しいトーマスが出現するのだ。そんなトーマスみたいに運命の一日を街角で探しているくそシティーボーイでした。何回シティーボーイ言うねん。

 

 

目玉焼き

我々はどうして目玉焼きという料理にそれぞれのアイデンティティを託して価値観を戦わせることが好きなのだろう。例えば焼き加減。とろっとした半熟派は、しっかり日の通した固めの黄身を好む者たちを親の敵のように叩く。その二党体制かとおもいきや世界は複雑だ。食べ方でも彼らは諍いを起こす。とろとろの黄身をつぶして白身にまぶして食べるものもいれば、山崩しのように少しずつ白身を削って、黄身を最後に食べるものもいる。彼らはもちろん仲良くなれない。

 

特に争うポイントといえば、どの調味料をかけて食べるということだ。塩こしょうのシンプル系もいれば、醤油をかける日本の家庭系、ソースをかけるコテコテ系、ケチャップをかけるモーニングプレート系、いやいやケチャップだけだと物足りないとオーロラソースをかけるネオモーニングプレート系もいるし、大乱闘状態だ。

 

私は、この互いの味覚を楽しく否定しあうことは当たり前のことだと思っていたし、美味しんぼで目玉焼きに関する回があって、そこに出てくる国際目玉焼き学会は本当に存在するものだと思っていた。同時通訳で目玉焼きについて話し合うなんて夢があるではないか!高等文化といえる。

 

しかし、目玉焼きにおいて我々が討論すべきことがまだまだ残されていた。それは"目玉焼き"という名称についてだ。あまりにシンプルかつグロテスクなネーミングであることを忘れていた。だって、だって目玉を焼くのである。右目だろうと左目だろうと目玉は焼かれたくない。

 

その観点から、食べ方を議論し合う人たちを見てみよう。

「僕は、半熟の黄身にナイフで少し切れ込みを入れて醤油を数滴かける。黄身の色が濃くなるまでなじませてから白身と一緒に食べるのが好きなんだ」

さあ、あなたの、もしくはあなたの愛するひとの目玉だと思ってこの文章を読んでいただきたい。その輝かしい瞳に刃が突き刺さる。塩分を豊富に含んだ醤油をかけられたら「傷口に塩を塗る」どころの悲鳴では済まされない。それを白目といっしょに食べるのである。嬉々と目玉の食べ方を話すこいつは、鬼だ。

 

「何を言ってんの?ソースが一番だよ。ちょっとかけすぎかな?というぐらいソースをかけて、白身からちょっとずついただく。パンやごはんと一緒に食べるのも美味しい。最後は黄身を壊れないようにすくって一口でパクッ。これが幸せなんだ」

続いてのサイコパスも恐ろしい習慣を暴露した。ソースで視界を奪ってから、白目を少しずつ削ぎ落として食べる。黒目は何が起きているかわかっていないが、強烈な痛みが目を襲う。拷問だ。 そして最後にブラックアウト。こうして誰かの両目は二体のクリーチャーの栄養分となった。

 

そう考えると、英語の目玉焼きの表現のひとつである"sunny-side up"はとても文学的ではないか。黄身を太陽に例えるなんて目玉と大違いである。太陽を食べるって、もう神話の世界だ。

 

食いしん坊な青年・アサメスには野望があった。あの空に浮かぶ太陽はどんな味がするのだろう。一度食べてみたい。彼は、器用な手先を生かし、翼を作った。紅に光るベーコンの翼と、父親・ブレクファスの倉庫から盗み出したハラヘルのフォークとナイフを腰に据え、魔獣・ソイソースの生き血を瓶に入れて、天空へと飛び出した。

 

太陽は真っ白い雲で覆われ、アサメスはベーコンの翼をはためかせ、深い深い雲の中をフォークとナイフで切り進む。もうすぐ太陽だ!と、雲を突き抜けた瞬間、太陽の熱でベーコンの翼がカリカリになってしまった。ソイソースの生き血も沸騰しだした。ここまでは海に落ちてしまう、、、アサメスが最後の力を振り絞って太陽を見ようとしたとき、太陽の半熟の光がきらめいて彼の視界を奪う。あっという間に彼の両目は焼けてしまった。ベーコンの翼も失った彼は…

  

(パタンと分厚い本を閉じる)だ、だから「目玉焼き」なの!?  

 

男も惚れる尻を持つ男・桃李(『娼年』観たマン)

娼年』を観た。

www.youtube.com

 

 一昨年に舞台で観た『娼年』が映画化されるというので観に行った。舞台はR-15だったが、劇場版はR-18。20世紀に生まれたことを誇りに思いつつ席についた。舞台版の感想をこのブログに書いているので、よろしければ是非。

takano.hateblo.jp

 

劇場版だからといってストーリーに大きな変化はない。松坂桃李演じる大学生の領が、娼夫となり、様々な性癖を持つ女性客の欲望を満たしていきつつ、成長していく物語だ。性という切り口において、ひたすら女性の願いを受容する領は、そのキャパシティを「普通」と表現していたが、性癖における「普通」の異質さによって彼は看板娼夫へと駆け上がっていく。

 

舞台版との違いでいえば、(当たり前かもしれないが)生々しさが失われていることだ。目の前で男女が混じり合う。具体的に例えるならハプニングバー的な、もう少し近づけば獣の匂いがしそうな空間に比べれば、何か非現実的に感じる。ただ、官能的な美しさでは劇場版であろう。東京の洗練された内装の部屋で、共通の目的を貪り合う2人にじっと息を呑む。

 

そして舞台版では観れなかった彼らの恍惚の肉体や表情も光っている。桃李の、えげつなく仕上がった最強の尻が揺れているのを大画面で眺めている私たち。あんな尻になるためにはどうトレーニングしたらいいのだろうか。永遠にスクワット?馬みたいに歩く?ただ尻を蹴られる?とにもかくにも男も惚れる尻を持つ男・松坂桃李

 

面白かったのは、ややドン引くほどの性癖を持った依頼者が登場すると、決まって客席の誰かが物を落とすのだ。携帯のようなものが落ちる音。カバンが落ちる音。これはおそらく私が観た回だけではないはず。明らかに動揺する人が出てくるので、そこもチェックしていただきたい。

 

ただ、人間とは賢いもので、何回も“変態”的な依頼者を観ていると慣れてくる。なんだかその各々の性のかたちが面白くなってくるのだ。「ほう、あなたはそんなものをお持ちで」と興味の塊としてキラキラ輝き出す。その性の解放っぷりにクスッとしてしまうと同時に、どこかその状態にたどり着きたい自分がいるのも事実だ。依頼者として西岡徳馬が登場するのだが、短時間で圧倒的なインパクトを残すので刮目せよ。そして、あなたはこうつぶやくだろう。「ねえ徳馬、その眼鏡チョイスする?」