砂ビルジャックレコード

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目玉焼き

我々はどうして目玉焼きという料理にそれぞれのアイデンティティを託して価値観を戦わせることが好きなのだろう。例えば焼き加減。とろっとした半熟派は、しっかり日の通した固めの黄身を好む者たちを親の敵のように叩く。その二党体制かとおもいきや世界は複雑だ。食べ方でも彼らは諍いを起こす。とろとろの黄身をつぶして白身にまぶして食べるものもいれば、山崩しのように少しずつ白身を削って、黄身を最後に食べるものもいる。彼らはもちろん仲良くなれない。

 

特に争うポイントといえば、どの調味料をかけて食べるということだ。塩こしょうのシンプル系もいれば、醤油をかける日本の家庭系、ソースをかけるコテコテ系、ケチャップをかけるモーニングプレート系、いやいやケチャップだけだと物足りないとオーロラソースをかけるネオモーニングプレート系もいるし、大乱闘状態だ。

 

私は、この互いの味覚を楽しく否定しあうことは当たり前のことだと思っていたし、美味しんぼで目玉焼きに関する回があって、そこに出てくる国際目玉焼き学会は本当に存在するものだと思っていた。同時通訳で目玉焼きについて話し合うなんて夢があるではないか!高等文化といえる。

 

しかし、目玉焼きにおいて我々が討論すべきことがまだまだ残されていた。それは"目玉焼き"という名称についてだ。あまりにシンプルかつグロテスクなネーミングであることを忘れていた。だって、だって目玉を焼くのである。右目だろうと左目だろうと目玉は焼かれたくない。

 

その観点から、食べ方を議論し合う人たちを見てみよう。

「僕は、半熟の黄身にナイフで少し切れ込みを入れて醤油を数滴かける。黄身の色が濃くなるまでなじませてから白身と一緒に食べるのが好きなんだ」

さあ、あなたの、もしくはあなたの愛するひとの目玉だと思ってこの文章を読んでいただきたい。その輝かしい瞳に刃が突き刺さる。塩分を豊富に含んだ醤油をかけられたら「傷口に塩を塗る」どころの悲鳴では済まされない。それを白目といっしょに食べるのである。嬉々と目玉の食べ方を話すこいつは、鬼だ。

 

「何を言ってんの?ソースが一番だよ。ちょっとかけすぎかな?というぐらいソースをかけて、白身からちょっとずついただく。パンやごはんと一緒に食べるのも美味しい。最後は黄身を壊れないようにすくって一口でパクッ。これが幸せなんだ」

続いてのサイコパスも恐ろしい習慣を暴露した。ソースで視界を奪ってから、白目を少しずつ削ぎ落として食べる。黒目は何が起きているかわかっていないが、強烈な痛みが目を襲う。拷問だ。 そして最後にブラックアウト。こうして誰かの両目は二体のクリーチャーの栄養分となった。

 

そう考えると、英語の目玉焼きの表現のひとつである"sunny-side up"はとても文学的ではないか。黄身を太陽に例えるなんて目玉と大違いである。太陽を食べるって、もう神話の世界だ。

 

食いしん坊な青年・アサメスには野望があった。あの空に浮かぶ太陽はどんな味がするのだろう。一度食べてみたい。彼は、器用な手先を生かし、翼を作った。紅に光るベーコンの翼と、父親・ブレクファスの倉庫から盗み出したハラヘルのフォークとナイフを腰に据え、魔獣・ソイソースの生き血を瓶に入れて、天空へと飛び出した。

 

太陽は真っ白い雲で覆われ、アサメスはベーコンの翼をはためかせ、深い深い雲の中をフォークとナイフで切り進む。もうすぐ太陽だ!と、雲を突き抜けた瞬間、太陽の熱でベーコンの翼がカリカリになってしまった。ソイソースの生き血も沸騰しだした。ここまでは海に落ちてしまう、、、アサメスが最後の力を振り絞って太陽を見ようとしたとき、太陽の半熟の光がきらめいて彼の視界を奪う。あっという間に彼の両目は焼けてしまった。ベーコンの翼も失った彼は…

  

(パタンと分厚い本を閉じる)だ、だから「目玉焼き」なの!?