砂ビルジャックレコード

カルチャーの住民になりたい

慣れないなりに【カモン・カモン】

『カモン・カモン』を観た。

 


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大人と子どもの違いがわからない。自分が歳を重ねるに連れ、その境目がわからなくなってくる。子どもの頃は、「体が大きければ大人」と思っていたけど、どうやらそうではないらしい。子どもでも大人っぽい考えの人、大人でも子どものように愛だけを求める幼稚な人、色々な人がいることに気づく。

 

『カモン・カモン』は、おじさんと甥っ子が奇妙な共同生活を始める物語だ。ラジオのジャーナリストとして活動するジョニーは、アメリカのティーンに未来に関する質問をインタビューする仕事をしている。あるとき、ジョニーの妹の子、9歳のジェシーを預かることになるのだが、このジェシーがなかなかのやんちゃっ子でひねくれ者。親としての経験がないジョニーはジェシーに苦労しながらも、彼との共同生活の中で心の距離を徐々に縮めていく。

 

自分は親の経験がないので、ジョニーの立ち位置に共感しながら観ていた。親戚の集いで、赤ちゃんを抱っこするみたいなくだりの時だけで、めちゃめちゃビビる。こんな宝物を私みたいなものが預かっていいのだろうか、万が一傷つけてしまったら…と考えると、ついつい心の距離をとってしまう。子どもだったのに、今や子どもに恐れてしまっている。

 

そんな私からして、数ヶ月も9歳の元気な男の子を見守り育てるという行為など、恐怖でしかない。仕事も大変なのに、予想だにしない出来事に巻き込まれながら、慣れないなりにジェシーに愛を与えるジョニーの献身さに尊敬。大人であることの基準のひとつは「愛を惜しみなく与えられる人」なのかもしれない。こういう豊かさを持った中年期を迎えたい。

 

現代の物語でありながら、本編は全部モノクロで撮影されている。スマホを使った人々をモノクロで見るというのもなんだか不思議な感じだけども、これは、色彩を削ることできっとこのジョニーとジェシーを中心とした人々の心情や感情に注目してほしいという狙いなのだろう。活字に最も近いタイプの映画というか、感情の機微な変化を追っかけたくなる。

 

ジョニーが仕事で使用するポータブルの録音セットが、『カモン・カモン』では重要なアイテムになる。ジョニーがアメリカのティーンに質問する場面が何度か登場するが、ティーンたちの考え方は自立していて、録音セットのマイクが、心の奥の声も聞いているようだ。物語の終盤でその録音セットは、ジェシーの声を収録する。

 

マイクに向かって吐露されるジェシーの感情に思わず心を揺さぶられる。特殊な環境での子どもならではの苦悩、叔父さんとの慣れない暮らしや、愛情に対する気持ちをジェシーは語りだす。「愛を惜しみなく与えられた」9歳の子どもが得た気付きは間違いなく人生の真理であり、ジェシーが大人になる日もそう遠くはないと感じた。

なんかいろいろ(単独ライブ2本観たのとか)

最近は音楽ライブよりお笑いライブを見る回数のほうが多いかもしれない。音楽ライブだと声を出せず、楽しさを分かち合えないのが本当に辛い。その分お笑いライブは、笑うことが許されているのが本当に大きい。自分だけ面白いことを見つけることができる点も適している。配信への相性もよかったりする。

 

最近、KOC2021の1位2位が単独をやっていたので、リアル、配信と機会を作って見に行った。コントの単独ってほんとにいいもんですよね。

 

草月ホールにザ・マミィの単独「Dusty」を見に行った。会場に行ってみたら最前列で少しビビる。変なおじさんと社会の中に迎合しながらも、どうしてもはみ出してしまう者たちをすくい上げる表現にうっとりする。ネタもそうなんだけど、コントの中の小道具の的確さに感動していた。

 

たとえば、ボランティアであることを見た目だけで伝えるためにはどうすればいいか、とか、新宿タイガー感を出すにはどういう小道具を積み上げればいいのかとか、そういう細かい小道具の精密性がリアリティを立ち上げて、観客は違和感を持つことなしにその世界の住人を受け入れられることができる。観客なんだから、単純に面白いかどうかで楽しめばいいのだけど、コントの見方をもうひとつ教わったようなライブだった。

 

KOC2021チャンピオン空気階段の「fart」は配信で。こちらも出来れば生で見たかった。「fart」=おなら、愚か者という意味で、この「fart」とリンクした展開のコントが何本かあった。登場人物が裸だったというのはよくあるけども、"全裸"だというのは史上初だったのではないか、というぐらいオープニングのショートコントの初速にシビれる。

 

空気階段の単独は、もぐらさんかかたまりさんのどちらかの生き様が透けて見えてくる。今年は完全にかたまりさんの年だ。「東京」というコントでは、岡山から上京する若者が登場する。「じゃがいも星人」といじられて早々に挫折する慶応大学法学部の学生のifを、コントとして昇華している。社会のレールからはみ出した者を愚か者にしてしまいがちだけども、愚か者だからこそ描ける世界がある。特に最後の「fart」では、絶望の中にいたかたまりさんがもぐらさんと出会って、愚か者にしか見れない景色が広がっていくようなコントであった。「屁出ないバカより、屁出るバカのほうが面白いに決まっている」というセリフに深く頷く。おならで笑い合える仲ってなんて素敵なんだろう。

 

いろいろと「fart」の感想を漁っている中、このnoteに出会った。まったくこの方のことなど知らないけど、この高校生の方が、コントによって、空気階段によって、fartによって、明るい未来を描けそうなら、私はそれだけで十分幸せな気持ちになった。

 

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目的地への着き方【オッドタクシー イン・ザ・ウッズ】

『オッドタクシー イン・ザ・ウッズ』を観た。

 


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タクシーに乗っていて、まもなく目的地に着くところで後部座席に座っている私はなんだかそわそわしている。料金メーターがギリギリあがらないかつ、なるべく徒歩せずに済む降車地点、かつタクシーが停められるポイントを、決めるタイムリミットが迫っている。

 

「それじゃあの信号の近くで降ろしてもらっていいですか?」意を決して、運転手さんにお願いをする。目的の信号の1個前の信号が赤信号になる。これは手痛い停滞だ。メーターに目をやるとしっかり上昇している。たかが数十円だけど、ちょっとへこんだ気分になって到着。携帯を車内に忘れずに帰れた自分ぐらい褒めてあげよう。

 

タクシーから東京の夜の景色を見ると、2021年爆バズリアニメのひとつであった『オッドタクシー』を思い出す。東京を舞台に、セイウチのタクシー運転手・小戸川、アルパカの看護師、ゴリラの医者など擬人化された動物が登場するファンタジーあふれる物語、、、ではなく、ある女子高生の失踪事件をきっかけに小戸川が東京の闇に巻き込まれていくノワールだ。

 

物語においてタクシードライバーというものは、災難に巻き込まれがちだ。前の車を追ってほしいと頼まれる運転手から、少女を救おうとモヒカンになって拳銃を握る運転手まで様々だ。そしてこの小戸川も。チンピラだったり、謎の陰キャだったり、色々な人物から狙われる。それぞれのキャラクターも立っているし、複数の謎が結末に向けてひとつになっていく展開も緻密だ。

 

主題歌を歌っているPUNPEEが好きな私は第1話からリアルタイムで観ていて、ビジュアルとダークな展開の落差に衝撃を受けつつも、あの3ヶ月だけ月曜日は夜ふかししていて観ていた。アニメ本編だけでなく、YouTube上でサブストーリーも公開されていて、放映当時は考察班が色々と書いていたのを読みながら最新話を待ち望んでいた。それが今や大ヒットコンテンツに。それで今回は映画化ということなのだから、あのときの私を褒めてあげたい。

 

映画化だが、どちらかというとアニメの総集編+αという仕上がりになっている。これまでのアニメ12話の本筋を再構築して、12話で起きた衝撃のラストの「その先」を描いている。オフビートな会話パートが削がれているのは、展開の複雑を考えるとしょうがないのかな。「その先」の物語が始まりそうなとき、館内はすでに静寂なのに、さらにもうひと段階、静寂になったような感覚だった。

 

良いポイントでタクシーから下車するように、物語において難しいのはピリオドの打ち方だと思う。小戸川たちの世界でどこを切り取るか、特にアニメ版はピリオドの打ち方が完璧すぎたために、「その先」の生活感みたいなのがにじみ出てしまうのはしょうがなかった。ただ、小戸川たちがその世界の中で生きているという実感が感じられた終わり方なのかなと思う。

 

タクシーから東京の街をながめても、どこのビルにもカポエイラ教室の看板が見えなかった。カポエイラの体験教室があれば一回受けてみたいなあ。

 

 

takano.hateblo.jp