砂ビルジャックレコード

カルチャーの住民になりたい

藤岡拓太郎かよ

それは、この間の日曜日の昼下がりだった。私は近所を外出中で、横断歩道で信号を待っていた。横断歩道を渡った先は街の中心地で、スーパーやらマクドナルドがあり、向こうのほうが人通りが多い。信号が青になる。音楽を聞きながら横断歩道を渡る私。渡りきったところで、ショッキングな光景に出くわす。そして、思わず心のなかでつぶやいてしまった。「藤岡拓太郎かよ」と。

 

スーパーから出てきたおじさんが、キャベツだけ持って出てきたのである。

 

藤岡拓太郎の世界に実写版があるなんてと困惑しながら、なんだか胸の鼓動が早くなる。心を落ち着けなきゃと、人通りの多い中心地から路地に逃げて、一時停止する。

 

冷静になって、そのおじさんの選択した行動は理にかなっているなと気づく。日本では小売店を対象に、2020年7月1日からレジ袋有料化が義務付けられたのだ。キャベツだけ必要なおじさんにはレジ袋など必要なかったのだ。むしろ、キャベツだけを持って帰るより、レジ袋にキャベツだけを入れて帰るほうが恥ずかしいのではないか?と思うようになってきた。レジ袋にキャベツだけは、網にサッカーボールを入れた少年のようで、半袖短パン少年じゃないといけないし、キャベツが白黒じゃないといけないわけで。その恥ずかしさを晴らすために、欲しくもないものを追加で買って、普通の買い物と見せることも考えるが、それはお金の無駄だ。だったら潔く裸キャベツ。藤岡拓太郎はただの予言者だったのだ。

 

ただ藤岡拓太郎の絵とは大きく違う点がひとつあった。小脇にキャベツを抱えてたわけではなく、ハンドボールのように右手でキャベツを鷲掴みしていた。きっと掴みごたえのある野菜ではトップクラスに入るだろう。じゃがいもと競り合うはずだ。そっかキャベツはハンドボールだったんだ。

 

ハンドボールはないけど、キャベツの生産量が異常に多い地域があるならば、学校の体力テストのときはキャベツを遠投するのだろう。(中学・高校男子ぐらいの手であればキャベツが妥当だろう。これを3号とする。そうすると2号はレタスがいいところだ。)肩が自慢の高校球児が投げたキャベツは独特の回転をしながら中を舞い、校庭へ落下する。飛び散る外の葉たち。学年で1位の記録が出たことを喜ぶ高校球児。2回バウンドしてから転がりだすキャベツ。「良い記録が出たぶん走らないけないんだよなあ」ウイニングランを決めた高校球児は停止したキャベツを拾い、右手で鷲掴みすると、次の生徒に手渡した。

  

もしや、あのおじさんはキャベツ投げの地域で青春時代を過ごしたのかもしれない。久しぶりにキャベツが投げたくなって、衝動的にスーパーに入ってしまったのだろう。たしかに、おじさんの向かっていた方角の先には、広い公園があったはずだ。皮肉なことに、東京の公園では「キャベツ投げ禁止」の看板は立てられていない。ルールの隙間をついて、日曜の休日を楽しもうとするおじさんが羨ましく見えた。

一生鼓膜がひなまつり

耳の日だからという理由ではない。3月3日が近づくとあの曲が脳内をかけめぐる。小さい頃にモー娘。全盛期だったため、ミニモニ。の『ミニモニ。ひなまつり』が勝手に流れ出す。あと、何回3月3日を生きるかわからないが、天珠を全うするならば少なくともあと70回は『ミニモニ。ひなまつり』はオートでかかり出す。

 

久しぶりに正解を聞きたくなって、YouTubeで本物を探す。頭の中で「ミニモニ!ひなまちゅり!」というリフレインが止まらなかったので、「ひなまちゅり」が題名だと思って検索してたんだけど、「ひなまつり」が正しいタイトルだということを知る。記憶の歪みは恐ろしい。

 

再生ボタンを押す。そうそう、細かくステップしながら移動するの真似してたなあ。この動きがなんだかツボだった。十二単の衣装だからあのステップが可愛く見えるのであって、その頃のシャカパン少年にはその魔力は発揮されなかったのである。

 

子供の頃にミニモニ。を見ていたから、見た目の年齢感覚が未熟だったというのもあるけど、あのころの辻ちゃん加護ちゃんってほんとうに子供だったんだなあと気づく。コメント欄を見ると「ミカだけ衣装が違うのかわいそすぎる!」という物心付く前からなんとなく感じていたミニモニ。あるあるの不満を消化させた書き込みに共感したけど、別の『ミニモニ。ひなまつり』の動画を見たら、全く同じ人物がミカの衣装だけ違うことに不満を漏らしていたので、急に冷めて戻るボタンを押した。

 

他のミニモニ。の動画を観たくなり、関連動画に上がっていた『ミニモニ。テレフォン!リンリンリン』を再生する。「パカパカ電話パッカ」という歌詞にノスタルジーを覚える。電話の歴史を考えてみれば折り畳める時代って特殊だったんだよなと気づく。そのあとに、「写真を撮りましょう カシャカシャカシャ」があるんだけど、MVでは携帯ではなく、フィルムカメラを使っていたことに、驚く。そうかこのときは、ガラケーであるが、カメラ付き携帯はそんなに普及していなかったのか。写メールやらJ-PHONEやら記憶の中でしか使うはずでない言葉を口にしてみる。

 

いまや、携帯からはボタンが消え、カメラから動画撮影から、作曲から何でもできるようになった。文明の進歩は恐ろしい。今度は一体どんな革新がもたらされるのだろうか。一方、いまだにお好み焼きどんぶりは発明されていない。

 

 

 

自分が主役の恋愛ぐらい最終回は録画したい(『花束みたいな恋をした』観たマン)

『花束みたいな恋をした』を観た。


菅田将暉&有村架純が激しいケンカ『花束みたいな恋をした』140秒予告

 

人と付き合うことってなんだかバラエティ番組みたいだなと思うことがある。これはきっとバラエティ番組が大好きな私の偏った考えが生み出したものであるが、あながち間違っていない。この人と時間を過ごしたらきっと楽しいと思ったり、ロケ(デート)したり、不思議な決まりごとのゲームをしたり、ただただふざけたり、共通点はとっても多くあると思う。

 

『花束みたいな恋をした』は、「アメトーーク」のくくり方のようなピンポイントの共通点を持った大学生の絹と麦が偶然出会うことから物語が始まる。押井守天竺鼠の単独ライブ、穂村弘ジャックパーセル。今まで出会わなかった事自体が奇跡だったような二人が急接近し、やがて二人は恋仲となる。この付き合うか付き合わないかぐらいで二人がジョナサンで語らう場面から、私はキュンキュンが止まらなくなる。(罪深いことに、ほむほむ大好きな自分はここで麦と自分を重ね合わせ始める)

 

結果から言えばこの二人は別れてしまう。物語は、絹と麦が、恋人関係だった5年間(2015年〜2020年)を追いかけたものだ。そりゃ価値観(価値観は本棚をチェックすれば一目瞭然だ)がとても近い運命の人みたいな人との付き合いたては楽しくて、観客側から観てもきらきら美しく感じる。同棲を始め、猫を買い始め、何をやってもうまくいく。勢いが止まらないまま、深夜バラエティの放送時間が昇格するような。

 

ただ、放送時間が昇格すれば、その分責任を伴うわけだ。番組を見る層も変わってくるわけで、深夜のノリのままではいられなくなる。大海原に浮かべた小舟のような住まいの二人に社会の荒波が徐々に押し寄せていく。二人で生きていくこと、好きなことをしてお金を稼ぐことの難しさを知った二人の距離は段々と離れていってしまう。二人のためにと、大好きなイラストを一旦諦めて、定職に就く麦の変わり果てた姿に心が痛くなる。遠くを振り返れば無敵オーラで生活を驀進していた二人がいたのに。

 

すれ違った結果、二人は別れてしまうのだが、このシークエンスも胸に来るものがある。お互い別れを意識しながら横浜のみなとみらいの観覧車に乗る。今までの日々を振り返る瞬間がバラエティの最終回のようだった。こんなロケ行ったよね、そのときそんなことを言ってたっけ、そうそうこのときこんなハプニングがあって。恋人として過ごした日々をもっと深く刻みつけるように話し出す。

 

観覧車での語らいの後、絹と麦はカラオケでフレンズの『NIGHT TOWN』を歌うんだけど、自分の頭の中では、画面の下半分にエンドロールが流れ出す。『とんねるずのみなさんのおかげでした』の最終回の見すぎなんだろうか?HDDから消したくないから、恋愛でもバラエティでも最後の瞬間はしみじみ笑顔でいたいものだ。

 

そして、この絹と麦の恋愛の終わりは、誰かの恋愛の始まりでもある。絹と麦が恋愛していた枠には、他の誰かの恋愛が入るのだ。出会いと別れは繰り返されて、僕らは、神様の編成の中で生きている。バラエティ番組のような恋愛は、すぐ打ち切られるか、長寿番組になるかは神様さえも知らない。