砂ビルジャックレコード

カルチャーの住民になりたい

90年代生まれ、定食屋で悩む

チェーンの定食屋に行くと十中八九悩み事が2つ生まれてしまう。1つめはメニューから何を食べるかということだ。昨日の夜に食べたもの、今日のお昼に食べたもの、料理ジャンル、食材を過去のデータとして答えを導こうとするが、期間限定の定食がそのデータを打ち破ろうとする。食券機の前で立ち尽くすのは横断歩道の真ん中でずっといるようなもので、迷惑行為どころの騒ぎではない。心を強く持ってその日の正解と思われるボタンをタッチし、回答権(券)を手にする。

 

 

今の若い子は知らないだろう。昔のテレビという媒体で行われていた素人が賞金を獲得できるクイズ番組があったのだ。そのクイズ番組では、賞金額が多くなるに連れ回答から正誤判断までの時間が腹立つほど長かったのだ。例えるならば、区役所でなにかの手続きを完了するまでの時間と同じくらい。現代なら冗長なドラムロールを鳴らしてる好きにググってセルフで正誤判断。そのままテレビOFF。YouTube見よってなる。

 

 

ただ、チェーンの定食屋は待たせはしない。ほどよい待機時間のあとに出された定食の湯気を顔に浴びながら、この選択が間違いないでことに気づく。ライフラインを使わずによくたどりつけた自分を褒めてあげたい。

 

 

しかし、ここで2つめの悩みが私の前に現れる。さっきまで僕を祝福していた湯気が牙を剥くのだ。熱い。熱すぎる。尋常じゃないほどの熱い味噌汁が行く手を遮るのだ。しかも私は猫舌である。あつあつのお味噌汁が鬼門なのだ。私自身としては、まず味噌汁を飲んで体を一回温めてから定食を食べ始めたいのだけど、ヒトカゲを選んだばっかりにニビジムで苦労した頃を思い出す。そのまま冷めるのを待つのか?自分で自分に待てをするのか?悩んだ挙げ句、ヒトカゲ(味噌汁)で攻略するのを諦めて、ゼニガメ(お冷や)、フシギダネ(サラダ)から手を付ける。

 

 

慣用句としての使い方でないほとぼりが冷めるのを待ってから、ようやく味噌汁のお椀を持つ。ここまで、ゼニガメフシギダネで定食のHPを削ったのだから大丈夫だろう。ここは仕切り直しで、味噌汁を一口すすって、ご飯をパクっ。そのあと生姜焼きを食べて、ご飯、、、と正統派の三角食べスタイルで平らげていけばジムバッジもゲットだ。そうだ、おいらは未来のチャンピオン。お腹いっぱいにして次の街へ行くんだ。と、意気揚々と味噌汁をすす、熱っ!

 

 

 

 

 

 

こ う か は ば つ ぐ ん だ !

 

 

 

 

 

 

私は火傷した舌をゼニガメで応急処置しながら、同じ失敗を繰り返す自分のことが嫌になりながらもジムバッジをゲットする。未来のチャンピオンへの道はまだ遠い。

家族は変なもの(『星の子』観たマン)

『星の子』をfilmarksのオンライン試写会で観た。

 


芦田愛菜『星の子』予告編

 

子供にとっての世界は、家族による枠組みで出来る。比較するものが無いし、正邪の判別なども無いから、その枠組みを「当たり前」と思ってしまう。だけども、年齢や経験を重ねるに連れ、違和感が生まれてくる。友達の家で飲む麦茶、やけに大声で叱るどこかのお母さん、バナースタンドを立ててずっと駅前で笑顔で立っている人。自分の家族と異なる違和感まみれの中で、子供は成長しながら、遂に気づく。あ、うちの家族も変じゃん。

 

小説を映像化した『星の子』の主人公は中学3年生のちひろ新興宗教の教徒の両親を持つちひろは、新しく中学校に赴任してきた数学教師の南先生のことが気になってしまう。自分の両親の行いに違和感を持ちつつも平穏な学校生活を送っていたちひろに、ある事件が起きてしまうという話だ。

 

中学3年生にもなれば自我も確立されていて、ちひろ自身も家族が一般の家族像と違うことに感づいているけど、その現状を受け入れている。観客も、ちひろの両親が新興宗教に傾倒したきっかけを冒頭で知ることになるから、なんとなく彼らのことを温かい目で見守りたくなるし、『星の子』で描かれる新興宗教の儀式が、おかしく描かれていて、宗教信者の前にちひろを愛する両親としての振る舞いをなんだか応援したくなる。

 

「宗教vs科学」というアングルで見れば、岡田将生演じる南先生の存在感は見逃せない。現代の日本で言えば南先生のような考え方がマジョリティなのではないか。未だに色褪せない過去の恐ろしい事件があったし、「新興宗教=極端な考えを持つ危ない奴ら」みたいな視点はどうしても生まれてくる。作中での代表格がこの南先生で、彼すなわちマジョリティ側の何気ない思想や言動に心が苦しくなる。

 

とはいえマジョリティの思想を持っている者たちも「家族」というマイノリティの集団から抜け出すことは不可能であり、それを隠しながら生活している人だっている。この『星の子』の世界で言えば、そんなマイノリティの両親のことを愛しているちひろは星のようにキラキラと輝きながら人生を謳歌しているように見える。

 

青春死亡前夜(『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』観たマン)

『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』を観た。

 

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幸福なことに教育を受けられた私達は、人生の初期において卒業式というイベントを経験する。たいていの人であれば3〜4回主役として出席する卒業式だが、言い方を変えてみれば、ネガティブな言い方をしてみれば青春の死亡宣告をされている華やかな会となる。通過儀礼として割り切れば、それまでだけど、当の本人は知る由もない。そして通過してから気づくのだ。もっと楽しんでおけばよかったと。

 

『ブックスマート』は、私が言うならば青春死亡前夜の物語である。主人公であるエイミーとモリーは親友で、2人ともガリ勉タイプ。他のクラスメイトのように遊び呆けることなく勉学に勤しんだ結果、高校卒業後のビジョンも明確だ。そんな中、モリーはある衝撃の事実を知ってしまう。遊んでるだけだと思っていた、やや下に見ていたクラスメイトの進路が自分と同じ名門大学や偏差値の高い大学であったのだ。モリーはエイミーを強引に引き連れ、残りの学生生活を謳歌しようとロサンゼルス中の卒業パーティーを駆け抜ける。

 

まず、舞台となった高校がキラキラしているのがもう羨ましい。楽しいことをしていないエイミーとモリーだが、そもそもエリート。もちろん悩みはいっぱいあるけれど、悲観的な生い立ちもないし、コメディとして不執拗なジメジメ感も全く無い。ステレオタイプアメリカの高校的なスクールカースト描写がほとんど観られないのも、変な息苦しさを感じなくて良い。フィクションの中ぐらい理想的な高校があっていいじゃないの。

 

こんなカラッとした作中の空気感に強烈に個性を放つのが、キャラクターたちだ。エイミーとモリーの、なんか知らんけどクラスにいるめっちゃ仲良しな2人(これはアメリカにもいるのね)をはじめ、船上パーティーを主催するジャレッド、神出鬼没のジジ、演劇風パーティーを行うジョージとアラン、学級副委員長のニックと、他にもいっぱいいて、2時間なのに端役まで濃くて彼らのことも好きになってしまう。

 

エイミーとモリーは、一夜の中で様々な卒業パーティーを巡る青春ロードムービー的要素もある。そもそもパーティーの場所さえも知らされてなかった彼女たちが、どうやってたどり着くかも面白い。しかも、無謀に夜の街へ冒険するだけでなく、人の心への冒険もある。今までクラスメイトという弱い共通点でしか括っていなかった人間が、こんなやつだったなんて、こんな考えだったなんて。彼女たちは、一歩踏み出すことで新たな世界を知る。こんなん一夜で経験できるの?ぐらいに。

 

高校生終了という死に向かって突き進むエイミーとモリーは、無事に遊び尽くすことが出来たのか。最後の夜も太陽が昇ればタイムリミット。その卒業式も描かれていて、思わず胸が熱くなった。泣き笑いするにはもってこいの作品だと思う。

 

ふと、自分の卒業式前夜と『ブックスマート』を照らし合わせてみたけど、ほとんど覚えていないことに気づいた。素朴に死を受け入れていた自分は青春の亡霊となっているようだ。青春を生きているうちは、はちゃめちゃやったほうがよかったなあと、スクリーンの彼女たちを観ながらふわふわと浮いていた。