砂ビルジャックレコード

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家族は変なもの(『星の子』観たマン)

『星の子』をfilmarksのオンライン試写会で観た。

 


芦田愛菜『星の子』予告編

 

子供にとっての世界は、家族による枠組みで出来る。比較するものが無いし、正邪の判別なども無いから、その枠組みを「当たり前」と思ってしまう。だけども、年齢や経験を重ねるに連れ、違和感が生まれてくる。友達の家で飲む麦茶、やけに大声で叱るどこかのお母さん、バナースタンドを立ててずっと駅前で笑顔で立っている人。自分の家族と異なる違和感まみれの中で、子供は成長しながら、遂に気づく。あ、うちの家族も変じゃん。

 

小説を映像化した『星の子』の主人公は中学3年生のちひろ新興宗教の教徒の両親を持つちひろは、新しく中学校に赴任してきた数学教師の南先生のことが気になってしまう。自分の両親の行いに違和感を持ちつつも平穏な学校生活を送っていたちひろに、ある事件が起きてしまうという話だ。

 

中学3年生にもなれば自我も確立されていて、ちひろ自身も家族が一般の家族像と違うことに感づいているけど、その現状を受け入れている。観客も、ちひろの両親が新興宗教に傾倒したきっかけを冒頭で知ることになるから、なんとなく彼らのことを温かい目で見守りたくなるし、『星の子』で描かれる新興宗教の儀式が、おかしく描かれていて、宗教信者の前にちひろを愛する両親としての振る舞いをなんだか応援したくなる。

 

「宗教vs科学」というアングルで見れば、岡田将生演じる南先生の存在感は見逃せない。現代の日本で言えば南先生のような考え方がマジョリティなのではないか。未だに色褪せない過去の恐ろしい事件があったし、「新興宗教=極端な考えを持つ危ない奴ら」みたいな視点はどうしても生まれてくる。作中での代表格がこの南先生で、彼すなわちマジョリティ側の何気ない思想や言動に心が苦しくなる。

 

とはいえマジョリティの思想を持っている者たちも「家族」というマイノリティの集団から抜け出すことは不可能であり、それを隠しながら生活している人だっている。この『星の子』の世界で言えば、そんなマイノリティの両親のことを愛しているちひろは星のようにキラキラと輝きながら人生を謳歌しているように見える。

 

青春死亡前夜(『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』観たマン)

『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』を観た。

 

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幸福なことに教育を受けられた私達は、人生の初期において卒業式というイベントを経験する。たいていの人であれば3〜4回主役として出席する卒業式だが、言い方を変えてみれば、ネガティブな言い方をしてみれば青春の死亡宣告をされている華やかな会となる。通過儀礼として割り切れば、それまでだけど、当の本人は知る由もない。そして通過してから気づくのだ。もっと楽しんでおけばよかったと。

 

『ブックスマート』は、私が言うならば青春死亡前夜の物語である。主人公であるエイミーとモリーは親友で、2人ともガリ勉タイプ。他のクラスメイトのように遊び呆けることなく勉学に勤しんだ結果、高校卒業後のビジョンも明確だ。そんな中、モリーはある衝撃の事実を知ってしまう。遊んでるだけだと思っていた、やや下に見ていたクラスメイトの進路が自分と同じ名門大学や偏差値の高い大学であったのだ。モリーはエイミーを強引に引き連れ、残りの学生生活を謳歌しようとロサンゼルス中の卒業パーティーを駆け抜ける。

 

まず、舞台となった高校がキラキラしているのがもう羨ましい。楽しいことをしていないエイミーとモリーだが、そもそもエリート。もちろん悩みはいっぱいあるけれど、悲観的な生い立ちもないし、コメディとして不執拗なジメジメ感も全く無い。ステレオタイプアメリカの高校的なスクールカースト描写がほとんど観られないのも、変な息苦しさを感じなくて良い。フィクションの中ぐらい理想的な高校があっていいじゃないの。

 

こんなカラッとした作中の空気感に強烈に個性を放つのが、キャラクターたちだ。エイミーとモリーの、なんか知らんけどクラスにいるめっちゃ仲良しな2人(これはアメリカにもいるのね)をはじめ、船上パーティーを主催するジャレッド、神出鬼没のジジ、演劇風パーティーを行うジョージとアラン、学級副委員長のニックと、他にもいっぱいいて、2時間なのに端役まで濃くて彼らのことも好きになってしまう。

 

エイミーとモリーは、一夜の中で様々な卒業パーティーを巡る青春ロードムービー的要素もある。そもそもパーティーの場所さえも知らされてなかった彼女たちが、どうやってたどり着くかも面白い。しかも、無謀に夜の街へ冒険するだけでなく、人の心への冒険もある。今までクラスメイトという弱い共通点でしか括っていなかった人間が、こんなやつだったなんて、こんな考えだったなんて。彼女たちは、一歩踏み出すことで新たな世界を知る。こんなん一夜で経験できるの?ぐらいに。

 

高校生終了という死に向かって突き進むエイミーとモリーは、無事に遊び尽くすことが出来たのか。最後の夜も太陽が昇ればタイムリミット。その卒業式も描かれていて、思わず胸が熱くなった。泣き笑いするにはもってこいの作品だと思う。

 

ふと、自分の卒業式前夜と『ブックスマート』を照らし合わせてみたけど、ほとんど覚えていないことに気づいた。素朴に死を受け入れていた自分は青春の亡霊となっているようだ。青春を生きているうちは、はちゃめちゃやったほうがよかったなあと、スクリーンの彼女たちを観ながらふわふわと浮いていた。

 

 

第63回短歌研究新人賞の話

今年度の短歌研究新人賞に応募した作品が最終選考通過作に選ばれていました。9月号に10首掲載されておりますので、よろしければご覧ください。

短歌研究2020年9月号

短歌研究2020年9月号

 

 

短歌の火を絶やさぬようにこそこそと毎年のように作品を投稿し続けていました。初めて送った2015年にも最終選考通過して、これが2度目。自己最高到達点に戻ってくるまでとても長かったなあ。俗に、創作の場合、「処女作が最高傑作」なんて言われることもありますが、その呪いを打ち破ったまでは行かないけれど肩を並べたという点においては、諦めないで良かったというのが率直な思いです。

 

とはいえ、こういう賞レースは受賞しなければいけないのもまた事実。特に私みたいな単騎で動いている人間にとっては、バズる体力・資本力なんてないから最終選考通過した程度で称賛してくれる人間はおらず、この事実は風化するだけ。ふと目をやれば馴れ合いの言葉たちが私の前に流れ出して、気まずくなった私は目的地も決まっていないのに、鞍上からムチを振るって遠くへ駆けていくのです。その先になにかあると信じて、大きく実る木の種を探して、集落への羨望をぐっとこらえて。