砂ビルジャックレコード

カルチャーの住民になりたい

酷暑をのりきる最善策

暑い。笑っちゃうぐらい暑い。真っ赤っ赤な天気予報見るだけでもう暑い。激辛料理を食べるテレビ番組のことを思い出してまた体感温度が上昇する。外に出れば、マスクがしっかり口の周りの熱気を閉じ込める。二酸化炭素を吐きながら、ああ温室効果ってこういうことなんだろうなと、浅はかな誤解をしながらカンカン照りの東京を歩く。

 

お昼ごはんで立ち寄ったハンバーガーのお店のBGMがRIPSLYMEの「楽園ベイベー」だった。このお店は最高かよ。酷暑から逃れられないならいっそ楽しんじゃえばいい。みたいなことを言われているような気がした。ここ1週間暑いから、日中は「楽園ベイベー」「太陽とビキニ」を聞いて、夜は延々「熱帯夜」をリピートすれば切り抜けられるんじゃないかと急激なポジティブシンキング。全ての夏曲を捨ててRIPSLYMEに託す価値は十分あるはずだ。

 

そんなわけで、日が暮れたため、当初の予定通り「熱帯夜」を聞いて暑さを凌ぐ。YouTubeで「熱帯夜」の関連動画を見ていたら、こんな素晴らしいのに巡り合ったのがブログを書きたくなった理由。

 

youtu.be

 

6年前の高校生たちが、校舎で、しかも昼に、なんなら服装から察するに冬の時期に「熱帯夜」のMVコピーをやっているのがとても愛おしい。ビキニのお姉さまたちはさすがに出てこないけど、巻き込まれ気味に映像に映る同級生の女子が、この世界観の「熱帯夜」に妙にマッチしている。こうやって、全く知らない人たちでも、ノリで撮った映像が青春のタイムカプセルとしてすぐに見れる現代が好きだ。この「熱帯夜」を撮って、しかも黒歴史として消去しない彼らに感謝。そして、映像を見るきっかけのきっかけになったハンバーガー屋さんにも頭が上がらない。そのお店で買ったハンバーガはやけにパティがちっちゃくて、マヨネーズバーガーみたいな感じだったけど許さざるを得ない。

 

この世は波で、僕らも波だ(『WAVES』観たマン)

WAVES』を観た。

www.youtube.com

 

自然界には直線が存在しないと聞いたことがある。その言葉を知ってから、外出するごとに「確かに」と思う場面に何度も遭遇する。白い雲も、海も、草花も曲線で出来ている。そういえば人間だって曲線だらけで出来ている生き物だ。そう、僕らは生きている限り曲線からは逃れられない。

 

自然の構造だけでなく、人生も「山あり谷あり」と例えるように曲線だらけだ。『WAVES』は、タイトル通り波のような高低差のある運命を迎える、ある黒人一家の物語だ。最近の映画をよく見ているみなさんならご存知のA24が配給しているこの映画は、大きく2部構成に分かれている。

 

1部の主要人物は高校生のタイラー。レスリング部のエリートであるタイラーは、部活にも取り組むし、かわいい彼女もいるし、これ以上求めようがない高校生活を送っていた。こんなやつ、同級生にいたら自分の存在感のなさに絶望してしまいそうだ。そして、タイラーの友達枠でアイデンティティを作ろうとするやつも出てくるだろう。それぐらいの充実した”勝ち組”高校生だ。だけども、勝ち組の彼にも悩みがあるし、物事全てが順風満帆にいかない。彼女がタイラーに伝えた、”ある告白”や、レスリング生命を脅かす肩の怪我、エリートとしての重圧がタイラーに襲いかかる。その結果、タイラーはある事件を起こす。

 

そんなタイラーにはエミリーという妹がいる。エミリーが第2部の主人公だ。タイラーの起こしたある事件により、心に傷を抱えてしまったエミリーの前に、事情をすべて知ったレスリング部のルークが現れる。そんなエミリーの心の傷を癒やすルーク自身もある事柄で葛藤を抱える人間であった、という話だ。

 

WAVES』でユニークなのが、劇中曲のプレイリストを作成してから、脚本が生まれたということ。シンガーソングライター的にかっこよく言えば詞先でなく、曲先だ。曲の雰囲気に当てはめるのも難しかったろうに、よくこんな器用なことをしたねえ、と、孫を愛でるような目線で感心してしまった。このサブスク時代では、映画と音楽も切り離せなくなっている。特に私なんかは気に入った映画があれば、すぐにサブスクで「映画名 プレイリスト」で検索して、BGMの余韻に浸りながら帰途につく。まるで見透かされたかのように「WAVES プレイリスト」で検索してやりましたよ。(そして、帰宅したあと、本作について調べていたら曲先ということを知って恥ずかしくなる)

 

音楽だけでなく、作中の色彩も非常に鮮やかだ。第1部は発色の良い赤と青を強調した映像表現が頭に残る。タイラーのイケイケな感じも色彩から伝わってくる一方で。2部は落ち着いたトーンだ。赤と青の混じった紫色が多いのが魅力的で、物語の調子が違うことを表現しているように感じた。

 

この映画のエンドロールで流れる音楽を聞きながらあることに気づく。音も色も波で出来ている。そして、人生だって波で出来ている。波で出来たこの世界で、この惑星で、一喜一憂する人生を音楽や色で救われている。美しい曲線ばかりの世界から逃れられないことをいっそ祝福しようではないか。

 

残留する高校生の記憶(『アルプススタンドのはしの方』観たマン)

『アルプススタンドのはしの方』を観た。


映画『アルプススタンドのはしの方』予告編

 

青春が30歳くらいにあればいいのになと思う。高校生活を青春の終わりとすると18歳を過ぎてしまえば、あとはどんどん遠くなる。人生は周回コースではないから、いつの間にか遠くなった青春の蜃気楼を眺めることしかできない。しかも私は、しっかり青春をしてきた自負が無いから、蜃気楼を詳しく見るための双眼鏡も買い出すタイプだ。帰宅部の友達少ない人間がきっとこの先手放すことのない双眼鏡。俺だってシーブリーズのフタとか交換したかった。

 

 

流行りは変われど自分が高校生の時の人間関係やコミュニティの構図は今も変わらないことに気づく。それが『アルプススタンドのはしの方』で中心的に描かれる高校生たちだ。夏の甲子園に自分の高校が出場したため、応援しに来た3年生の4人(演劇部の安田、田宮、元野球部の藤野、ガリ勉の宮下さん)は、なぜか目の前の試合に対してすごい冷静で、応援団や吹奏楽部と温度差がある。甲子園での主役も脇役にもなれずNHKで1秒も映ることのない彼らにだって人生があって、悩みがあって、ぶつけられない気持ちがある。その気持ちの交差が、野球の展開とともに進展していくという話である。

 

甲子園という設定だが、全く野球のシーンは出てこない。ただ、ブラスバンドの奏でる曲と応援の音とアナウンスだけで試合の展開がわかるのだから、野球というのは不思議なスポーツだ。(そして、我々が野球のシステムに慣れすぎてしまっている証拠である)今年は夏の甲子園が中止なのだから、この音楽を映画館で聞くだけでもなんだか嬉しくなる。あとは柳沢慎吾の横浜vsPLの模写を見ればパーフェクトだ。

 

原作は高校演劇の戯曲ということもあり、いつまで経っても不変な高校生活のリアリティがそこにある。ただ4人が、同級生の話や学校生活の話をしているだけなのに、なんだか自分の高校生活と重ね合わせてしまう。すでに失ったと思っていた高校時代の感覚をこの映画が思い出させてくれる。果たして自分が、この高校ならどの席にいるのだろうか。この中心の4人を自分の学年に当てはめると〇〇さんかもなあと、決して人と共有してはいけないノスタルジーにも浸りだす。

 

そういえば自分の通っていた高校にも野球部があったのに、一回も応援に行かなかった。市営か県営かわからないけど、火照った固い固いシートに座って、日焼けも怖がらずに野球部を応援しなかった高校生活を激しく後悔した。