砂ビルジャックレコード

カルチャーの住民になりたい

夜朝まで

木曜日の朝は、起き抜けに「佐久間宣行のANN0」を聞くのが決まりになっている。基本的に朝から、エスプレッソのような濃いカルチャートークと、なぜか絶対潜んでいる、あるテーマのガチ勢(今回はセガだった)リスナーの有益な情報を頭に入れながら目をさます。

 

番組の途中に流れたある一曲に心を奪われる。聞いたことのないアーティストの名前だけど、めちゃくちゃ透明感のある女性の歌声だった。だみ声で紹介された「レイニック」という言葉をあーだこーだ検索して辿り着いた。インドネシアのRainychというYouTuberだった。

 

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この曲は、Doja catというアメリカの鬼バズリアーティストの"Say So"を日本語でカバーしたという曲だ。彼女の主言語はインドネシア語だと思うが、まったく淀みのない日本語のイントネーションで、彼女が日本人でないということに衝撃を受けた。この"Say So"以外にも、日本のアニソンや竹内まりやの「プラスティック・ラブ」をカバーしていてそのクオリティもすっばらしい。

 

ちなみにRainychはプロフィール欄に"Cat butler"(猫に仕える執事)と自称していて、え、Doja catとかけてんのか?と、勘ぐりたくなる。気になる。沼への一歩は特に進めている。

 

さて、彼女が歌う、この和訳の"Say So"は誰が作詞したのだろうか。よく歌詞を見ると、きっと日本語が母国語でない人物が訳したような、絶妙な違和感が感じ取れる。もしかして、英語話者は日本人が全編英詞で歌う曲に対してこんな気持ちを抱いていたのだろうか。

 

たとえば冒頭の歌詞、英語の元訳では、

 Day to night to morning

 となっているのだが、Rainychバージョンでは、

夜朝まで

という訳になっている。これ以外にも、音に合わせるための苦労が伺える訳し方がいくつが見えるのが微笑ましい。母国語が日本語である私が訳すとすれば「ねえ朝まで」みたいな感じになるか。「朝まで」というだけで、夜が包含されていることに気づく。

 

ただ、この違和感は歌を聞いた限りではまったく気づかないのがすごい。それだけ彼女の日本語の歌声がすっと耳を癒やしてくれるし、むしろ「夜朝まで」という本来、日本語表現にない言葉のほうが正解に聞こえてくる。Rainychは、その歌声で新しい日本語表現を作ってしまったのだ。はやくこれが世に浸透しますように。願わくば、偶然出会った女性に「夜朝まで一緒に遊ぼうよ」なんて言われたら、岡村ちゃんのカルアミルクみたいに、ファミコンやってディスコ行ってレンタルのビデオ借りて見たいのだ。

 

 

 

埼京線

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埼京線の渋谷駅ホームが山手線の隣に移動したらしい。嬉しい反面、いびつで不毛な徒歩の時間が消えると考えると寂しくもある。これで、なんとなく心の遠さを首都圏鉄道用語で例える表現は「京葉線の東京駅」ぐらいになってしまった。積極的に使っていこう。

自分は埼京線と縁のない生活圏の人間だったので、埼京線といえばすぐにラーメンズの「日本語学校」のネタを思い出す。

 

「これは、山手線ですか?」

「そうです。埼京線です」

 

山手線を探している片方に対して、もう一方が肯定しつつも、ミスリードをする会話のナンセンスさが面白かったのだけど、これってホーム移転前の渋谷駅の話なんじゃないか?と、背景が頭の中でたちのぼる。質問者をA、回答者をBとしよう。東京の生活に慣れない外国人のAは渋谷駅から山手線で別の駅へ向かうはずが、新南口から入ってしまったため、埼京線ホームに迷い込んでしまったのだ。渋谷はターミナル駅だから間違えやすいというネットのアドバイスを真摯に守る真面目なAは、確認のために道行く人に聞くが、ここは東京。見方を変えれば世界で一番人に冷たい街。早足で行き交う乗客になかなか声がかけられない。そしてようやく声をかけられたのが、東京の人々とは違うテンポで駅を埼京線ホームにいたBというわけだ。

 

「これは、山手線ですか?」

 

突然、日本語で話しかけられたB。ほとんど馴染みのない東京で、ほとんど喋れない日本語での質問に戸惑う。ただ、電車を指差しながら困った顔の外国人のことは放っておけない。きっと彼も、私と同じように、この冷たい街に怯えながら生活しているのだ。異国における異国人同士、助け合うべきなのだ。Bは、とびっきりの笑顔で、Aが指す電車の名前を言った。

 

「そうです。埼京線です」

 

慣れないおじぎをするA、呼応するように深々とおじぎを返すB、通り過ぎる東京都民たち。発車ベルの音に急いで、埼京線に乗るA。Aの背中を見つめながら、ふと2ヶ月前に成田空港からの乗り換えに苦労したことを思い出すB。出発した埼京線が起こした風を浴びながら、Bはどこかすがすがしい気持ちで、新南口の改札へ向かった。

 

自分はこの会話の表面的な部分でしか笑っていなかったけど、実は渋谷駅での一コマだったんじゃないかと考えると、ラーメンズの恐ろしさを改めて思い知る。もう「日本語学校」の中に、埼京線の遠いホームの思い出は閉じ込めて、新しい埼京線ホームを祝福したい。Aが二度と埼京線に乗り間違えないことを祈っている。

 

夏が来れば思い出す(『ミッドサマー』観たマン)

『ミッドサマー』を観た。そして今更書く。

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「夏が来れば思い出す」という歌詞ではじまる童謡、「夏の思い出」の歌詞を見ても全然そんな景色を思い出として持ち合わせないことに気づく。水芭蕉も石楠花も、何色の花か知らないし、同様の理由でケツメイシの「夏の思い出」みたいに手をつないで海岸線を歩いたことや、プールに落ちる様子を逆再生した経験も持ち合わせていない。模範的な夏の思い出は私にとっては蜃気楼で、夏休みはもっぱらクーラーとアイス、甲子園の熱気、たまに素麺ぐらいで構成されていた。

 

この文章を書いている今は、5月の後半。夏の足音が徐々に聞こえてくて、太陽も顔を近づけてくる。子供の頃と同じように冷風を浴びているけども、今年は『ミッドサマー』のことを思い出していた。もう”あの頃”となりつつある2月の映画館が僕にとってのlast summerとなったからだ。

 

スウェーデンのある集落で開かれる90年に一度の祭りに行くことになった大学生5人組。5人の中で唯一の女性であるダニーは、自分以外の家族が一家心中したため傷心中であった。白夜の土地で行われる祭りや、その驚愕の文化によって、ダニーとその恋人・友人たちは徐々に心狂わされていくという話だ。

 

北欧に行ったことがないからか、私の中の北欧のイメージはどこか歪んでいるのかもしれない。IKEA、バイキング、ムーミンフィヨルドの恋人。結果、『ミッドサマー』によって、その歪みは確固たるものとなった。一面、緑が永遠と続くヘルシングランドの風景は、脳内でイメージ検索すると、最初の方に出てくる天国のようで、白い服を着ている集落の住人も天使に見えてくる。

 

ただ、環境というのは恐ろしいもので、夜の来ない世界、自分の生活世界と違う文化様式や価値観に死生観、さらには宗教観。それらが原因となって作中で発生する事件を目の当たりにしてしまうと、この天国が地獄に見えてしまうのが恐ろしい。主人公であるダニーや、その仲間が巻き込まれていくのだけど、心のどこかで「こういう宗教観もあるよね。文化の相違が起きたんだ」と丁寧に客観する自分もいるわけで。果たして何を善悪とするのかがわからなくなっていく。考えを巡らせながらも、客席である我々にも延々と光は降り注がれて、冬の真っ暗な映画館なのに、酷暑の日差しを浴びたような精神的ダメージを受けて、頭がぽーっとし始める。

 

 

夏が来れば思い出す。嬉々として踊りだすダニーの姿を。草花に囲まれるダニーの姿を。しかし、私がめまいのような症状を起こしつつ観た映像は、本当に『ミッドサマー』だったのか。『ミッドサマー』の映像が生み出した虚像なのかもしれない。夏の思い出は、いつだって蜃気楼。