砂ビルジャックレコード

カルチャーの住民になりたい

辞書にあればいいのに(『愛がなんだ』観たマン)

『愛がなんだ』を観た。


切なすぎる…岸井ゆきの×成田凌『愛がなんだ』予告編

 

問題です。あなたが街を歩いていて、制服を着た男女二人が微笑ましくつるんでいるところを目撃したとする。さて、この二人の関係性はいったい何でしょう?きっと高校生の恋人同士という予想が最初に思いつくのではないだろうか。続いて、きょうだい同士、親戚同士といった考えを持って、彼らのディテールから選択肢を絞るはずだ。

さっきと同じように仲睦まじく歩く二人がいた。それが見たところ2〜30代の男女だった場合、この二人の関係性を当てるとなると格段に難易度が上がる。恋人?夫婦?きょうだい?友達?職場の先輩・後輩?レンタル彼女とそのお客さん?それとも…?

 

『愛がなんだ』は、ある男とある女の関係性について考えたくなる映画だ。原作は角田光代の同名小説。主人公のテルちゃんを演じるのは、岸井ゆきのさん。俺は今までの人生で何回「ないものねだり」のMVを見て、チャーハンを食べたくなっているのだろう。テルちゃんが想いを寄せる男性、マモちゃんは成田凌さん。かおちっさ。


KANA-BOON / ないものねだり

 

このテルちゃんのマモちゃんへの片想いの一直線っぷり、狂いっぷりが話の本筋だ。「私は田中守になりたい」と願うテルちゃんの献身的もとい自己破滅的な行動やデレている表情を見てて痛々しくなると同時に、男性目線で見ると、「あー、マモちゃんのこういう曖昧な態度やっちゃうよなあ」と自分が過去に行ったことがある女性への行動を見透かされているようで恥ずかしくなる。別に、自分と成田凌を重ねてマウントを取ろうとしているわけではない、その率直な感情として…わかったわかった、ビンタ1発していいから。

 

この身に覚えにある行動や感情の描写も素晴らしいし、日常の些細な切り取り方も美しい。帰り道で嘘をついたり、カップラーメンを思いっきりすすったらむせたり、朝方の居酒屋を出ると雨が降ってることがあったり、人に料理を作るときに限って卵がうまく割れなかったり。見えない日常、誰もが知っているのに気づかない日常を描かれているからこそ、テルちゃんとマモちゃん、そしてこの二人を取り巻く登場人物が自分の現実の延長線上にいるような気がしてならないのだ。

 

テルちゃんのマモちゃんへの惜しみのない愛情がやがて、自分の存在意義の証明になってくるのが恐ろしい。遥か遠くに見える都市群を目指して郊外の一本道を爆走する軽自動車だ。標識はあるのだけども、いつまでたってもたどり着かない。残りkmが減ったり増えたりするこの一本道しか走れなくなったら我々はどうするのか。そりゃ突っ走るしか出来ないよな。誰もが精神のどこかにテルちゃんの要素を持っている気がするよ。と、同時に分かれ道を持っていないテルちゃんのコミュニティの乏しさが抱える悲劇でもある。

 

では、これは"ある女性の気持ち悪い片想いの映画"と言われれば、それは違う。マモちゃんも、別の年上の女性に片想いをしていて、その女性はテルちゃんを好いている。一方通行でない人間関係がテル・マモの関係性をより複雑に、混沌としている。3人が同じ場所に集うシーンもあって、目線でそれぞれ伝える思いが胸にくる。

マモちゃんの想いを寄せる女性はパリピのすみれさん。学生のときに1軍にいたであろうマモちゃんは、そのスクールレイヤーに属しなかった自由さを持つ(もしかしたら女子校かね?)すみれさんに恋をして、それでテルちゃんは3軍のこそこそやっている穏やかな女子。学校のときにあった見えない社会の階層が徐々に薄れていって、20代の後半になって無くなっていって、苦しんでいるような気がする。階層の無い生活は素敵だけど、やっぱ学生生活ってわかりやすかったんだよな。

ときとして、このマモ>テルの恋愛上下関係が逆転する瞬間もあって、『バッファロー'66』のあるシーンを思いだした。ただの片想いという関係性ではないし、友達以上恋人未満、セフレ、という言葉ともなんだか違う。自分がテルちゃんの立場になったら、それほど仲の深くない知り合いになんて説明したらいいんだろう。辞書にない関係、言葉になっていない関係だから人に理解されにくい。こんな曖昧な関係で過ごす時間、嫌いじゃないけど苦しいし、辞書にあればいいのに。少なくとも、この映画があってよかった。

  

ふたつの知らない挨拶

もうすぐだというのに、ぼくたちは最も適した挨拶を知らない。改元前、改元後の挨拶のこと。年末年始を例にする。年末、冷たい夜風が吹く中、帰り際に親しい人に向かって「良いお年を」と言う。言わないとなんだかむずかゆい。そして、年が明けたら、「あけましておめでとうございます」だ。口に発することで体に新年が明けたことを馴染ませるようでもある。

1年に1回必ず迎えるルーティーンだからこそ、この挨拶は存在するが、今回は話が異なる。平成生まれの私には、改元は、はじめての経験だし、崩御だった昭和→平成とも雰囲気が違うようだ。明らかに改元前・後が未来に設定されているのであれば、何と言うべきか考えていきたい。

 

 

4月30日には、なんと言おうか。「良いお年を」のパターンを踏襲するとなら、「良いお元を」になる。「お元」?…茶屋の娘ではあるまいし、そもそも言われた側もポカンだ。もっとシンプルなのがいい。

「それじゃ次は令和で」というのは、わかりやすいが直接的かもしれない。日本語的な遠回りな言い回しで挨拶したい気持ちが沸々とわきあがる。なんだか待ち合わせみたいじゃない?「それじゃ明日、丸井前集合で」のやつだ。令和からほとばしる地名感、ブランド感。令和デパート7階の催事場では、GW中にラッセン展が行われるようです。

ここは、年末との違いを明確にすべきか。年末〜年明けの瞬間にすること第1位といえば、ジャンプすることである。面白くない面白くない...とわかっていながらも、ちょっとやりたくなってしまう。「俺、令和になった瞬間、宙浮いてたからw」そう言うであろう奴らを戒めるために「ジャンプすんなよ!」と、釘を刺して別れてみる。駅前でちょっと大声で、関係ないやつにも聞こえるように。

 

 

5月1日の「あけましておめでとう」に変わる挨拶。これもまた難問である。”明ける”という表現でいいのだろうか。ここは目線を変えて英語で考えてみよう"Happy new year!"のyearを置き換えればよい。「元号 英語」で検索すればeraと出た。なるほど、時代という表現なのか。つまり、"Happy new era!"が正解である。いやいや、待てよ。奥ゆかしさよwhere。そもそも、英語にした私が間違いでした。しかし、時代という観点は、いいヒントだ。

「新時代の幕開けぜよ!」ここで龍馬スタイルを試しに投げてみる。時代を動かしながら明治の日本を見ることの出来なかった龍馬の意志を受け継いで、穏やかにバトンが次の世代に渡されることを見届けようじゃないの。ただ、このセリフを言うのに大きな問題がひとつあって、それは、私があまり坂本龍馬に思い入れが無いということだ。高校も世界史取ってたし。

巡り巡って煮詰まった結果「…なんだか、なっちゃいましたね」と照れくさそうに言うのが適しているという結論に落ち着いたけど、もっと芯を食った挨拶があるはず。人生でも数えるぐらいしかない瞬間にふさわしい表現があれば教えてくださいエブリワン。

 

それでは、令和を待ちましょう。ジャンプすんなよ!

 

 

お前の目となり、耳となろう

年を取れば取るほど足りなくなるもの、それは時間である。特に簡単に音楽、映画、ゲームを簡単に移動中に手に取るようになった現代において、人々は常にマルチタスクで生きている。

 

私だってそうだ。家から駅までの道は、新しい音楽をチェックし、電車の中ではダウンロードしておいた映像作品を見る。SNSを眺め、周りの世界の動きもアップデートしないと。もちろん社会に利益をもたらす活動も必要だ。余裕があれば、ラジオを聞きながら作業をすすめ、Webニュースもチェックする。ニュースで気になった本は、カフェでおしゃれに読み耽る。こんなコンテンツを消費するなかで襲ってくる食欲、睡眠欲、性欲にも時間を割かなければいけない。単純に24時間じゃ足りないのだ。人生を豊かにするコンテンツを容易に取り込める幸せに苦しめられている。現代人としての立派な病に罹っていることを誇るしかない。

 

こうやってブログを書くときにも時間を割いているわけだが、これも火の車状態だ。火の時計というべきか。火時計。それはそれで、ヴィレヴァンとかで売ってほしい。

 

なるべく映画館で見た映画はブログに落とし込みたいと思うのだけど、まとめるまでの頭が回らず、時計の針は回りまくって、結局、後回しになってしまう。なるべくペースをあげて書きたいんですよ。ただ、睡眠欲に負けてしまう。抗った罰として体調が悪くなってしまう。情けない。でも、かけ!って「かくかくしかじか」の先生が言った教えはなるべく守っていきたいんだ。

 

4月は魔の季節だ。改編期でオールドメディアより新しいコンテンツの大洪水が降り注ぐ。特にオールナイトニッポン0がアツい。私は霜降り明星と佐久間宣行プロデューサーの虜になってしまった。耳も足りない。

 

霜降り明星のANN0は、同世代がパーソナリティーになってゴリゴリに笑いのナイフを突き立てている感じがえげつない。リスナーからの「5000円札の新肖像画はカンカラ」というネタメールに大爆笑する粗品さんが愛おしい。もうすぐ令和だというのにカンカラで笑ってくれるだろうというリスナーの勇気にも拍手を送りたい。カンカラの時代劇コント楽しかったもんなあ。オンバトの許容性の代表格だもんね。

 

と、同時に僕らが子供のときに見上げてた大人の姿に、いつの間にか自分が重なっていたことに気づく。幸田シャーミンのモノマネで笑う大人にポカンとしていたちびっ子が、ローラ・チャンとか根本はるみというワードで爆笑できるようになったのだ。おぎやはぎを見て「象さんのポットみたいだね」と批評する書き込みに何故か否定された気になった思春期の少年は、いずれ現れてくる新星に「福田徹平みたいだね」と、心なく言う日がやってくるのかもしれない。(そして、そんな大人にはなりたくない)

 

佐久間さんのANN0は、もう勝手にゴッドタンのスタッフになった気で聞いている。その事象に興味を持てば持つほど、表に出ない人の話の考えていることが気になってしょうがない。へ〜そんなこと考えているのか〜 へ〜そんな経緯で今につながるんだ〜と、なんだか有名料理店のレシピを教えてもらっているみたいだ。

 

特にこの間の劇団ひとりさんとのスペシャルウィークはゴッドタンを10年見続けているものにとってはたまらない時間であった。キス我慢選手権や、景気づけにおっぱい見せての裏側。いまも強烈に残っている画面の前の狂気を記憶している大脳皮質が疼いた。

 

そんななか、佐久間さんが一般人のブログを情報源としてチェックしているという話をしていて、ドキッとした。それは言わずもがな自意識過剰である。きっと、あそこのブログを見ているんだろうなあと、ポップカルチャーに明るいとんかつラジオDJの脳内を想ってみる。

 

こんな学級新聞みたいなブログ、無人駅みたいなアクセス数のブログなんて見ていないに決まっている。でも、もしかしたら、たまたま踊り場に立ち止まって私の書いた文字を見てくれるかもしれない。迷い込んだ無人駅の掲示板に書かれている伝言をじっくり読むかもしれない。実際、誰かがここに来てくれて文章を読んでもらっている。その先は知らないけれど、読んだ人の行動が変わる可能性がゼロではないと信じる勇気が、この記事を書かせたのだ。

 

だから、私はお前の目となり、耳となろう。そのための時間なら惜しまない。