砂ビルジャックレコード

カルチャーの住民になりたい

The way to ちょけるおじさん

社会の一員となってから、ちょけること、ふざけることの回数が減った。そもそも回数自体は多くなかったので実質ゼロに近い。心ではふざけたいと思っているのに、社会の歯車としての矜持がそれを妨げる。人生の乾きを感じつつある。

 

もっとも心を開いている人たちには、ちょけたり、ふざけたりは容易いのだけど彼らも立派な社会の構成員だ。会う時間も少なくなっていき、ますますパサパサになる。理想の姿で生きていけないために、周囲から「冷静だよね」と言われることが多い。それって「面白みがない」ってことじゃないのか?冷静な「冷静だよね」がひっそりと僕の心に爪を立てる。

 

ちょける環境がなければ、はじめましての人にどうやってちょけるかが肝になっていく(のか)。といっても人見知りの私。年をとってきて、ようやく人見知りセンサーが曖昧になってきたのは好材料といえどもまだまだ怖い。第一印象でその人への見方がきまるというし、自分の劣等感があぶり出されていくような感覚になる。こわばってしまう。

 

特に、美しい人と話すときに、(というか見かけるだけで)畏怖の感情が生まれていく。「きれい」「かわいい」の上には「恐ろしい」があると思う。目が合うだけで「殺される」と体がゾワッとする。きっと前世はメドゥーサに石にされたんだと思う。

 

この間ローレン・サイの出版記念サイン会に行ってきた。美しい人を見るだけで死にそうになってしまう私が、だ。ローレンに伝わるよう英語で言ってしまおうスーサイド・マイセルフだ。そもそもサイン会や握手会に行ったことは1〜2回しかなく、現代のカルチャー消費人間としてはヴァージン扱いされても仕方がない。自分の目の前の列が少しずつ減っていく。キャピキャピして、ローレンと楽しそうに話す女の子。きっと僕と同類でもじもじしながら話す男の子。何を話すか考えているけども、頭が上手に回らない。

 

目の前の最後の一人が帰っていく。一緒に写真を撮っていた。羨ましい。緊張がピークを迎えとうとう私の番だ。スイカ割り挑戦者のように頭はぐるぐるとしたままローレンに近づく。もちろん叩く棒は持っていないので、立ち尽くす。そのときにふいに

 

「あ、いつも好きです。」

 

と、脈略のない言葉が出る。ちゃんと受け止めてくれるローレン。「写真撮ってください」と大ぶりのパンチをただ振り出す。しっかり2SHOTに成功し、無意識の目的が達成したのだろう。ふと我に返った私は発した行動内容を思い出して恥ずかしくなる。小走りでローレンのもとから去っていった。本当は小粋なジョークでも言いたかった。帰り道で脳内反省会を開催する。もらったサインのことを見返すより先に。

 

 

しっかり写真を撮ってもらったことを考えると、私は冷静な性格というよりただの強か野郎なのかもしれない。今度はローレンの好きな色とか聞く。最終的に、全身その色でローレンの前に現れて引かれる。そこまでがちょけるってものだ。

 

 

 

 

ノートだけ借りるやつほんと嫌い(『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』観たマン)

『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』を観た。

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タイ料理といえばガパオ、エビがのったパッタイに、カオマンガイ、そんでトムヤムクン、もちろんカレーも見逃せない。食欲をそそるものばかりで、気づけばタイ料理屋さんに入っていることも多い。きっと異国の料理店に行くときにパスポートが必要な世界であったら私のパスポートはティーヌンのビザばかりだ。

 

では、タイ映画はどうかといわれれば、ほとんど思いつかない。「アタック・ナンバーハーフ」か「チョコレート・ファイター」だ。オネエかアクション、その2択しか出てこない乏しい頭を許してくれ。そんなタイ映画=視覚的インパクトが強いという私の固定観念を鮮やかにぶち壊す映画に巡り合ってしまった。『バッド・ジーニアス』だ。

 

舞台は、タイの進学校。教師を父親に持つ少女・リンは成績も優秀。奨学生としてこの進学校に入学する。その高校で出会った友達・グレースの頼みから、彼女にカンニングの協力者になることを承諾してしまう。そのお人好しなカンニングから、学校中を巻き込んで人生を狂わすほどの壮大な事件が起こる。

 

この映画では、「テスト中にどうやってカンニングするか?」というところが一次元として存在する。シンプルな悪事だが、もちろんカンニングが重罪であることなど義務教育をきちんと通った日本国民なら承知だ。このハラハラ感を、スローモーションやリンとグレースの豊かな表情でスリルある表現にしている。全然時間が進まないのに、ページ数はやけに多くなるスポーツ漫画のようだ。

 

カンニングをする/防ぐの関係性により、少年少女(生徒)vs大人(先生)という対立構造がぱっと見えるが、生徒たちの人間関係も複雑なのが、この映画に深みをもたらす。グレースのボーイフレンドであるパット(2018年にこんなキザまだいたん?)や、この学校のもうひとりの天才・バンクも巻き込まれていき、この騒動が加速していく。特に天才少年バンクのことに慈しみたくなる。あったかいお味噌汁を飲ませてあげたい。規律に厳しく、小さなボロボロのクリーニング店の実家も支える彼を主としたドラマとして見ると本当に考えさせられる。

 

生徒たち、子どもたちのコミュニティの間で起こるドラマ。結果を残さないと行けない状況下で起こるベビーフェイスとヒールの対立構造。ただ、この環境を作っているのは、学歴社会という重圧というのが皮肉だ。

 

親に喜んでもらいたいから成績を取る。成績を取るためにズルをする子供がいるという切なさ。年を重ねるごとに、学歴社会という戦場に送り出す側に近づいたときに「カンニングは良くない」と堂々と言えなくなっている僕がいる。このような遠因を作った大人たちに対する、少年少女の創造性あふれるカンニングは、むしろ正義の行動にも思えてくる。彼らは未来を賭けているのだ。

 

ただ、急がば回れだとは言わせてくれ。勉強は積み重ねが重要だ。一夜でいい成績を残せるなら、教育業界なんてないんだから。大学のときにろくに授業も出ずに、ノートだけ借りてテストを乗り切った誰かが所得の低い暮らしを送ることを今も願っています。

 

 

この年になっても初めて知る日本語、初めて知る漢字があるというのは嬉しいことだ。私が巡り合ったのは、「猋」という漢字。犬を書いて、犬に犬である。読み方は「ヒョウ」。犬が3匹いるのにネコ科。意味は、「犬が群がり走るさま」だそうだ。犬という字を3つ重ねて群れを作り出しているのか。

 

 

3つ重ねる手法は「森」が有名だ。群れを表す策として最低限同じ漢字が3つ必要というわけか。そらだいたいのものは3つあれば物足りる。三角形だって文殊の知恵だってPerfumeだって2つじゃだめなんだ。かといって4つだって多すぎる。一、二、三と棒を重ねるだけだったのにいきなり四になるのは、単純に棒線を数えるのがめんどくさいからじゃないか。数え間違えても大変だし。やはり、先人の考え方は合理的だ。

 

 

「猋」や「森」のように同じ漢字を重ねて、新たな意味を成す字のことを「理義字」というそうな。嬉しい。またひとつ新しい日本語に出会うことができた。先人はWebの使い方も上手でウィキペディアに「理義字の一覧」が載っていた。よだれが止まらない。

 

 

「品」「晶」のようなおなじみのやつらも理義字の一味だったとは、お前らは意外な一面を隠していたんだな。一覧を眺めると「猋」のように、動物・生き物を3つ重ねた漢字が多いことに気づく。「犇」「蟲」「贔」とかろうじて見たことがあるやつらもいれば、「驫」「鱻」のように画数多めの動物でできた理義字もあった。ちなみに「驫」は「猋」と同じような使われ方で「馬が多く走る様子」という意だそうだ。読み方は「ヒョウ」、、犬も馬もネコ科だった。

 

 

えぐい画数の理義字も見つけた。「龘」。龍を3つ重ねるという中学生的発想。こんなんジャポニカの漢字練習帳に書いたらノートも小指の付け根も真っ黒になってしまう。意味は、「龍が空を行く様子」とのこと。己の人生で使う場面はいつか現れるのだろうか。「キングギドラ」という意味ならまだ使うチャンスはありそうなのに。

 

 

話は「猋」に戻って、ふとある曲の歌詞を思い出す。

お金持ちが同じ犬3匹
引き連れて華麗にwalking毎日

ーSummer Holiday / chelmico

この情景描写も見事だが、待ってくれ。1匹だといいが、犬が3匹揃うと走り出すんだぞ?彼らのスピードにお金持ちはついていけるのか?大型犬の777なら、そこらへんのデカ帽子マダムは引きずられて跡形もなくなってしまう。せめて2匹にするんだ。3匹だと融合がはじまってしまう、、、走り出す前にそのリードを離すんだ!すべては命のために、、、、、あれ、起きない。なぜなんだ?

 

 

「鑫」・・・「金銭や財産などが多いさま」

 

 

金も理義字モードを持っていたのか。そら犬もゆっくり歩きますわ。「金」も3つまとめるなよ中国人。マイケル・フェルプスかよ。