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もう1回観るやつ(『ブレードランナー2049』観たマン)

ブレードランナー2049』を観た。


映画『ブレードランナー 2049』予告2

 

とうとう、楽しみにしていたブレードランナー続編がやってきた!ある冬休みの深夜、DVDで観た『ブレードランナー』はガキであった私をとてつもない近未来に連れてってくれた。雨、都市、空飛ぶ車、レイチェル。何もかもが美しかった。過去の作り出した未来の世界観に圧倒されたことを覚えている。観終わったあと初めてそのまま2周目を再生した映画でもあった。

 

もちろん、わくわくは止められずに、公開初日の渋谷の映画館へ駆けつけた。いろいろな世代だけでなく、外国人も1割〜2割ぐらいいたのではないだろうか。ひしめき合って物語の続きを楽しみにしているのがなんだか嬉しかった。

 

もう、とにかくあっという間の3時間だ。きっと、これ、もう1回観るやつだ。完成された世界観に浸る幸せったらもう!ああドゥニ・ヴィルヌーヴライアン・ゴズリングハリソン・フォードも、このブレードランナー2049に関わったスタッフロールの記載者たちよ本当にありがとうございます。

 

舞台は前作の30年後のロサンゼルス。この30年間に、大停電やら企業買収やら色々なことがあったのだ。その前作と、今作をつなぐ短編映像3本をYouTubeで無料公開しているのも憎たらしい。(そしてこれを観るんだ!!)この映像だけでお腹いっぱいの幸せ。幸せと同時に予習をさせるしたたかさ。東進なみのホスピタリティ。

 

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この2048に出てきたサッパーが、2049の“謎”を生み出す。(そして演じるのはバティスタ!)バティスタといえば、おへその周りにタトゥー。醸し出す知獣さがたまらない。WWEスーパースター上がりのアクションも観てほしい。

 

2049には、前作をうまくなぞったシーンが多く、本当にずるい。冒頭のアレとか、謎を見つけるアレとか、それであの人出てきたときはちょっと泣きそうになったよ。30年間でこの世の中が進んだように、ブレードランナーの世界も30年間、しっかりと時が進んでいたのだ。丁寧な世界観に感動。うどん屋のおじさんに思いを馳せる。

 

主人公のライアン・ゴズリング演じるKもしぶカッコイイが、Kの“彼女”であるジョイの出来過ぎな彼女っぷりにうっとりする。彼氏のことを気にかけてくれるジョイ。コスプレもしてくれるジョイ。助手席に乗ってくれるジョイ。ジョイはなんでも叶えてくれる。そんなジョイが私のもとにもこないだろうか。

 

前作の主人公のデッカードハリソン・フォード)も「待ってました!」と言いたくなる堂々の登場。Kとデッカードとの新旧ブレードランナー同士の会話と、徐々に明らかになる“謎”の真相に息を呑む。

 

ああ、もっと考察したくなる。前作からまた繰り返し観なければ、これはもう1回観るやつ。

 

生きててよかった2017。

 

観たい欲望はかわらない(『プラネタリウム』観たマン)

プラネタリウム』を観た。


ナタリー・ポートマン、リリー=ローズ・デップが姉妹役で初共演 映画「プラネタリウム」予告編

 

星の数ほどある映画の中で、観る作品を選ぶ基準というのはいくつかある。ジャンルで選ぶ、出演者で選ぶ、上映時間で選ぶなんて考え方もある。この『プラネタリウム』に関しては一点突破だ。ナタリー・ポートマンとリリー=ローズ・デップが姉妹役というだけで、観に行かなければ!という気持ちが芽生えた。それぐらいのワールドクラスタッグである。なんてキャスティングしやがるんだ。この姉妹は最高だ。

 

時代は1930年代。スピリチュアルなショーで観客を魅了する美人姉妹を演じるのがこの2人。仕切るのがお姉さんのローラ(ナタリー)、死者を降霊させるのが妹のケイト(リリー)である。パリに赴いた際に、有名な映画会社のプロデューサーが、この2人に心酔し、この降霊術を映画化させようと企画する。というところで、物語が大きく動き出す。降霊術をするシーンがあるのだが、不思議な妖艶さに息を呑む。映画館がひんやりとした空気になったようで、ケイトの苦しく激しい息遣いがこの箱を支配する。

 

まだまだテレビが誕生せず、映画産業が斜陽前だった時代が背景としてある。(そして、この時代も、物語の展開に大きく関わる。)確かに映画で幽霊を見れたらどんなにすごいことか。たったの30年前には機関車の到着だけで大層驚いたわけだ。

 

とはいえ、スピリチュアル的現象を観たい欲望はかわらない。(というより記録したい)だってね、突然火の玉とか、知らん幽霊とか、シンプルなお岩的女性見たいもの。残念ながら違う技術が発展したものだからそれが真実かどうかがますますわからなくなってしまった。かといって欲張って、見えないものを見ようとして、覗き込んだあげく冥界に行くのはごめんだ。一歩立ち止まれ。この映画には、最強の姉妹がいるではないか。スピリチュアルなんか信じなくても、ナタリー・ポートマンとリリー=ローズ・デップという真実を大画面で観れる奇跡がいとも容易く行われているのだ。いつの時代も観たい欲望はかわらない。

 

 

奇数音と偶数音

感動したとき、衝撃をうけたとき、それをなんとか言葉にしようと、あわよくば自分なりの表現方法に記そうと思うのだが、それが出来ない。もどかしい。なんとか脳で思ったことがそのまま言葉となって落ちてくる脳内回路を開拓したいのだけど、小さな掘削員たちはまだ発見できていないみたいです。

 

短歌をこつこつ作っていて、するっと出来るものもあれば、ああでもないこうでもないと唸りながらピンセットを使うように紡ぐ。満足いくものが出来たら嬉しいけど、ただこれを見せようとなるとなんだかもったいなくなる。Twitterでひょこっと作品を発表できる人は、度胸があると思う。完成したボトルシップを川に浮かべるようなことを簡単にやってしまう。あっという間に時流の底に行ってしまうのに。

 

最近読んだ本の影響を受けて、短歌でディレクションするという目標が出来た。(これは、短歌には限らないけど。)「受け手に委ねる」なんて無責任なことを言わずに、しっかり、そのものを読んだ人、感じた人に99%同じ風景を見せるようにしたいのだ。そこまでディレクションして、はじめて残りの1%を「受け手に委ねる」ことができるのではないか。そう気づいたとき、いかに自分の作ったものが自己満足に溢れていたのかと思って恥ずかしくなる。その場しのぎの甘美な言葉で満足するような人間はもうやめよう。

 

とはいえ、短歌も出がらし気味だったので、頭の体操を兼ねつつ若さに任せてラップのバースを作ってみた。韻を踏むのは結構好きだし、ある程度短歌を作っているので、という変な自負があったがそもそも作り方が違うではないか。57577が全くリズムに合わないのだ。

 

そういえば音楽って偶数が主の世界だった。48488で32音だからと、melodyに合うように変化して、韻を踏む。そしてtofubeats.feat 森高千里の「Don't stop the music」のinstに合わせてラップしてみる。清々しい恥ずかしさだ。とはいえ、自分がラップし終わった後に森高千里がサビを歌ってくれるので高揚感がとてつもない。これはいい遊び方を知った。

 

melodyがあればラップ、melodyがなければ短歌に。そんな感じで行きたい。