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真実の真実性(『三度目の殺人』観たマン)

三度目の殺人』を観た。

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果たして、私はこの先の人生の中で何度、福山雅治という人物にかっこいいという感情を抱くのだろうか。もう飽きるほどかっこいいと思っているのにもかかわらず、同じ感情を抱いてしまう。頼んますから色気分けてくれ。

 

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そんな色気むんむんなマシャの最新作が是枝裕和監督の『三度目の殺人』だ。マシャは弁護士・重盛を演じる。殺人の前科がある容疑者・三隅(役所広司)が新たに起こした殺人事件の担当をすることになった重盛は、調査を開始する中で、新たな真実を知るミステリー・サスペンス映画である。法廷をめぐる重厚なドラマで、吹いてもいない冷たい風を感じるような作品であった。特にマシャと役所広司との面談室でのシーンがすさまじい。

 

本作で考えたくなるのは、“真実の真実性”だ。報道の内容、容疑者の証言、検事側の言い分、関係者だけが知っている事実。公になるもの、公にならないもの、信じたいもの、信じてはいけないもの。情報というのは本当に扱いづらいもので、手に入れた情報をもとに我々は“真実らしい”真実を作っていこうとするのだが、そこに嘘があればそれは真実ではない。しかし、司法があるからには、真実は作らなければならない。

 

この裁判における“真実”の作られ方が考えさせられた。ほぼ唯一、真実が公的となる場所だ。絶対100%の真実が作られる状況でない場合、何を真実とするのか、不都合な事実はどうするのか、天秤のようにつり合う結果を“真実”として収めるのか、真実製造工場としての裁判所が抱える不安要素というのを感じ取れる作品ではないか。

 

裁判所は真実メーカーだったのか。野菜のように「この真実は私が裁きました」みたいな顔写真付きの判例集が出て来る世界を想像した。

 

 

 

バイオニックドラえもん(『スイス・アーミー・マン』観たマン)

スイス・アーミー・マン』を観た。

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キャンプなどに持っていくマルチツールに弱い。東急ハンズなどで売り場を見つけるとじっとその性能を見てしまう。キャンプは趣味ではないし、十徳ナイフは買ったことも使ったこともないけども。あの小ささで色々なことに使えるという器用さに、勝手に自分を重ね合わせて「ああ私も十徳ナイフのような人間になりたい」と思ったりもする。

 

この『スイス・アーミー・マン』というのは、十徳ナイフの通称「スイス・アーミーナイフ」から来ている。十徳ナイフのように様々なポテンシャルを持っている人物を想像するがその通り、この映画に登場するメニー(演じるはダニエル・ラドクリフ)は八面六臂の大活躍をする。ただし、死体なのだ。世界一有名な魔法使いのくせに死体なのだ。

 

ポール・ダノ演じるハンクが無人島に漂流しているところから物語が始まる。絶望の淵にいるハンクが見つけたのが打ち上げられた死体・メニーだ。メニーの奇跡的な“搭載機能”を発見したことにより、無人島への脱出計画が始まる。まず、ハンクがメニーのスイスアーミーマンっぷりに気づいた瞬間があるのだが、その美しさ、生き延びる希望を見つけた喜び、生に満ちた疾走感がたまらない。数日ぶりに熱いシャワーを浴びたような気分になる。

 

偶然打ち付けられた死体が、無人島脱出の秘密兵器となるというストーリーのくせに、そこまでシュール性を感じない。何故ならば、振り向けば死という極限状態の中で、とにかく生きようとする執念や、走馬灯のような描写、自然の恐ろしさといった、生きることの鮮やかさを実に映画的に表現しているからである。

 

ハンクが生きたいと願えば、死体が奇跡を起こす。この性能なんでもありなのかよ!というやり過ぎ加減も愛しい。もはや、この神話のような展開を積極的に受け入れてしまっている自分がいる。それは、ドラえもんのようだ。適した人に救世主が与えられるとこうなるのだ。

 

ハンクとメニー、生と死の間にいる二人のやり取りを観ていると不思議と癒やされる作品だ。生きているって素晴らしい。ただ、前言撤回させてほしい。メニーのような永遠十徳ナイフのような人間になりたくはない。死んだら還らせてくれ。

mess

気になった言葉や言い回しがあると、携帯のメモ帳に入力する。「なんだかこれは言葉の響きがいいから、今度友だちに使うタイミングがあったら使ってみよう」とか「韻が気持ちいい」とか「美味しいご飯屋さんだから」というものもある。物欲のゲインを最大に高め、ブックオフでワゴンから漁るように、メモ帳に言葉を積み重ねる。

 

ペクチーニは悩んでいた。この夜が明ければ母の葬式なのに哀しいという感情が全く湧かないのだ。親しい友人であるモンモが父親を亡くしたとき、葬式でモンモは見たことがないような泣き顔で、聞いたことない大きさの泣き声で哀しんでいた。ペクチーニは、そのモンモに同情し泣いたことを覚えている。親友の父親の死なら哀しめるのに、実の母親の死に対して、感情は何も答えてはくれない。

 

困ったことに、そのメモ帳に残した言葉が膨れ上がってきて、自分でも処理できないほどになっている。一瞬のひらめきみたいなもので入れていることが多いので、「なぜこんな言葉を入れたのだ」と、見返してみるとよくわからないものもある。ただ、その言葉にはたしかに熱があった(はずだ)。そういうことを考えると、なかなかその言葉を削除できない。積もり積もってメモ帳というより言葉のガラクタ箱になりつつあるのが現状だ。

 

曇り空からわずかに見える月をぼんやり見つめる。子供の頃、人が死んだら星になると、母が言っていたことをペクチーニは思い出す。あの頃からあまのじゃくな性格で、母親の創作した話も信じなかった。死んだら星になる話をする前にお墓に連れて行く母もよくないと思う。でも、今日ぐらいはあの母の話を信じてみよう。ここから月に行くのにどれくらいかかるのだろう。おっとりしていた母だから、普通の人より時間をかけて月にたどり着くはずだ。曇ってて歩くには適していそうだ、と思うとペクチーニは自分の感情が少しだけ柔らかくなりつつあることに気づいた。なんとなく月が輝き出したが、ペクチーニはそれを信じることにした。

 

メモ帳もいくつかに分けているのが良くないのかもしれない。整理整頓せずにとりあえず入れているからだ。(しかし、整理整頓したらメモ帳じゃなくなる、という気持ちもある)メモ帳のデータを横断し、なんとなく紐付いた瞬間に、その言葉たちを近くに置くようにした。これですっきりするんじゃないかな。

 

それにしても、黄金色というより銀色のような月だ。ペクチーニは茶を飲む。銀色の月は白くなり、ある一部分だけ光り出す。ペクチーニが茶を飲み干したときには月全体が光り出し、月から白い光の点がいくつも飛び出して、だんだんと大きくなっていく。ペクチーニは、月の異変に気づいたが母親のことを想いたかった。そんな自分でありたかった。大きくなる光のひとつが、ペクチーニの眺めていた空を包み、その光の中から人間、人間にしては頭が異様に長細い二本足のいきものが降りてきた。

 

少しずつメモ帳をまとめていくと、埋もれ続けていた言葉たちに出会える。昔の私はこんなことを考えていたのか、もしかしたら昔の私のほうが切れ者だったのかもしれない、なんだか言葉の同窓会に出席した気持ちだ。その言葉の中から今、使いたくなるものを拾い出すのが楽しかったりする。ペクチーニ、お前は一体どういうやつだったんだ。