砂ビルジャックレコード

カルチャーの住民になりたい

ゾンビだって鮟鱇だって(『WE ARE LITTLE ZOMBIES』観たマン)

『WE ARE LITTLE ZOMBIES』を観た。

 


"WE ARE LITTLE ZOMBIES" Official Trailer

 

昔はなかなかカルトだったゾンビ映画も、今では市民権を得た気がすると思うのは私だけではないはずだ。きっと渋谷でゾンビの認知度調査をやったら100%だろう。(渋谷だから)その存在が認知されていれば、人々はそれに例えて、伝えることができる。「終電でゾンビのように家に帰る」「ゾンビのようなターゲットへの執着力」「青春ゾンビ」と、いたるところでゾンビは発生しているし、人間はゾンビと共存している。たまにゾンビになったりもする。

 

この『WE ARE LITTLE ZOMBIES』も「ゾンビ」という言葉を用いた表現のひとつだ。主人公は4人の子供たち。彼らは全員両親を亡くしたという共通点を持つ。感情の乏しさや、社会のコミュニティに属せなくなったもの=ゾンビとして生きていく彼らの冒険の物語。曇り空のスタンド・バイ・ミー

 

全体を覆うレトロゲーム的な映像表現やピコピコとした音楽の持つ無機質さと親しみやすさが『LITTLE ZOMBIE』と称された彼らのイメージとピッタリと重なる。チップチューンと死ってなんでこんなに相性がいいんだろう。教会とかシオンタウンとか。4人は無表情で淡々と語ることが多く、かえってセリフがズサッと突き刺さる。そういえばゲームするときって顔の表情死んでいるよね。

 

彼らは冒険の途中で音楽の力を手に入れる。4人でバンドを組んでから彼らの世界は彩りを取り戻しはじめる。バンド名はもちろん「LITTLE ZOMBIES」だ。この音楽の力で、暗い世界から徐々に光が差し込んでいく感じや、次のステージに進んでいく感じは、お正月に放送された「Eテレ ココロの大冒険」と雰囲気が通ずるものがある。今作のほうが、よりケミカルでダークだ。題名とおなじ『WE ARE LITTLE ZOMBIES』が流れるシーンはこの物語のクライマックスだ。

 

もし、この「LITTLE ZOMBIES」の音楽が世間に受け入れられたら、、、そのifも本作で描かれている。これを大逆転劇と呼ぶのか終わらない悲劇とか感じるかは受け手次第だろう。音楽性でだけなくそのアーティストのパーソナリティーやドラマ性まで求めてしまう観衆の我々なのだ。バンドのメンバー全員両親を失ったって、そんなこともお構いなしに消費する我々なのだ。観衆が一番の恐ろしい生き物なのだ。

 

悲劇のヒーロー/ヒロインを監視したい欲望を自分が持っていたことに気づいたとき、愚かさを恥じるけど、改めることなんてできない。ゾンビだって鮟鱇だって残さずに骨の髄まで堪能する。自分の養分とする。堪能したらごちそうさまって言うのを忘れずに。それがせめてもの礼儀だ。

 

 

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タピオカン侵略戦争

とうとう、タピオカミルクティーを飲んでしまった。梅雨明けの暑さにも負けてとうとう手を出してしまいました。自首します。横浜中華街や台湾でタピオカミルクティーを飲んだことはあったけど、現在の日本に吹き荒れる雹のようなタピオカドリンクスタンド乱立ブームに負けじと耐えてきたのだが、とうとうその波に私も飲まれてしまった。飲まれて飲んでお腹タプタプまで飲んで。河島英五

 

しかし、雨後の筍みたいなタピオカ屋さんの勢いが凄まじい。とうとう自分の家の徒歩圏内にも出来た。怖い。東京の都市部に行けば、どこに行ってもタピオカ屋が等間隔でそびえ立つし、もうこれは一種の監視社会だ。パノプティコンだ。逃走中のミッションに失敗して100体のハンターが放出されたらこんな感じなんだろうな。誰だよ自首したの。

 

看板でもネットでも、タピオカという文字が目について、ゲシュタルト崩壊してきている。大きい文字でデンと書かれたタピオカと見ていると、あることに気づいた。

 

 

タピオカ

 

 

「タピ」の2文字に注目すると「死」という文字に似ている。 そのことに気づいた瞬間、私は最悪の終末を想像した。「タヒ」の横につく不自然な半濁音。これがタピオカなのだ。タピオカが死を司る悪魔であることを示唆しているのである。

 

甘くてもちもちした黒光りする顔の裏には、とんでもない野望が隠れていた。それはタピオカによる人類の制圧、地球の侵略だ。徐々に増えるタピオカドリンク店が増えているのも、私達、人類のデータを集めるためだ。いかにも低コストで儲けたい人類を見つけては洗脳する。タピオカドリンク店を開業させ、監視システムさえ作り上げれば、あとは戦略に則って、着々と残りの人類を支配していくだけ。

 

一部の人類は、その陰謀に気づいたが、すでに残りの人類の脳はタピオカのようにぷるぷるにされてしまっていた。すぐにミルクティーで出来た風呂に入りたがって話にならない。自然環境にも問題が起きていて、砂浜に打ち上げられた大量のタピオカをBBCが報じている。エベレストもタピオカだらけのようだ。ここまで来たらタピオカとまともに戦っても勝ち目はない。苦渋の決断だが、新たな惑星へ移住しよう。

 

東シナ海近くにに突き刺さった巨大なプラスチックストローを滑走路に、僕ら一部の人類は球状の方舟に乗り込み、地球を勢いよく脱出する。きっとまた、ぼくらの星に帰ることができるさ。何の説得力もない言葉だけど、こう言ってみんなを勇気づけることしかできなかった。黒く艷やかに光る地球はだんだん小さくなって見えなくなった。

 

 

現実と虚構のシンクロニシティ(『天気の子』観たマン)

『天気の子』を観た。

 


映画『天気の子』予報①

予告ではなく予報なのが、もう素晴らしい。

 

映画や音楽、漫画もそうだけどコンテンツにアンテナを張っているとシンクロニシティに出会うことがある。別々の映画で、同じ挿入曲が使われていたり、たまたま読んでいた漫画と、たまたま観ていた海外の映画の敵キャラの能力が同じだったり。最近でいえば『ラ・ラ・ランド』の終盤の展開とオザケンの『流動体について』の歌詞だ。あり得た別の世界線のふたりを想う描写を短期間で摂取した私は、その1週間、話のわかる友人に熱弁していた。

 

ちょうど『天気の子』が公開された時期は、梅雨真っ只中で、しかも、気温もなかなか上がらない。テレビも日照時間の短さに心配するぐらいの雨だらけの日が続いた。偶然にも『天気の子』の舞台は、雨の降り止まない東京だった。『君の名は。』も公開日に観た私は、この現実とアニメーションの世界が地続きになっているうちに見に行くことを決意した。

 

takano.hateblo.jp

 

 『君の名は。』と同じようなボーイ・ミーツ・ガールのお話。離島から家出して東京に出てきた高校生・帆高は、ファーストフード店でバイトをしていた陽菜と出会う。その後、偶然、繁華街で再会した二人は距離を縮める。そんな中、陽菜が帆高に、自分の能力に関する、ある秘密を打ち明けて、物語が一気に動き出す。

 

「雨が降り止まぬ東京」という設定だけで私の心は撃ち抜かれているし、ある場面でムーのTシャツを部屋着として生活する帆高で蜂の巣状態だ。どんよりとした巨象のような街で生きていると、なんだかこういうところに安心感や期待感を覚えてしまう。

 

ディストピアな都市の中で、それと相反する力(地方の高校生、オカルト的伝説といった要素)が奇跡を起こしている展開を、限りなく写実的なアニメーションで表現するものだから、どこかで僕はこれが「なくはない世界」と思っている。加えてこの東京の環境だ。きっと誰もがもやもやしている東京を駆け抜ける帆高と、不思議な力を有する陽菜が僕らの希望になる。あの厚雲に穴を開けてくれと願いながら、二人の活躍を観ていた。

 

観終わったあと映画館を出たら、まだ雨が降っていたけど、そんなことはどうでも良くなった。雨が少し愛しく思えた。週間天気予報の傘マークが面白くなってきた。だけど、そのうち梅雨前線もいなくなって、過ごしにくい真夏が来る。梅雨が明けたら、大きい声で叫ぶんだ。ひなさああああああああああああああん!!!!!って。