砂ビルジャックレコード

カルチャーの住民になりたい

徒歩圏内でノマドと名乗るなんて(『ノマドランド』観たマン)

ノマドランド』を観た。

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ノマドという単語自体、日本という国土では使うのが無理があったのかもしれない。ノマドワーカーという言葉が一昔前に流行った。Wi-Fiが整備されたカフェなどで、ノートパソコンを用いて仕事をする人たちのことだ。当時はオフィスに出社したり、客先に行ったりして、仕事するのが一般的だった時代に、彼らの存在は新しがられた。いつしか遊牧民と名付けられたけども、所詮、家と近くのWi-Fiカフェを行き来しているだけの生活だ。それはノマドじゃねえ、と『ノマドランド』で描かれるアメリカのノマドワーカーの暮らしを見て思い知らされる。徒歩圏内でノマドなんてちゃんちゃらおかしかったんだ。

 

ノマドランド』の主人公はファーンという60代の未亡人。彼女は定住せずにキャンピングカー暮らし。あるときはアマゾンの倉庫で仕分けしたり、あるときはビーツの収穫を手伝ったり、と思えば、ファストフード店で働いたり、季節労働など仕事のある先を求めてアメリカを移動して生きている。このファーンのノマド生活を描いた作品。決してスタバでMacなんか開かない。そんなノマドのファーンを演じるのフランシス・マクドーマンド

 

キャンピングカー暮らしという言葉を表面だけ受け取ると楽しそうだが、それは、日常が別にあるからだ。キャンピングカー暮らし=日常生活であることがどんなにしんどいか、ファーンの質素な暮らしを通じて伝わってくる。リッチで自由な暮らしをしている人なんてほんの一握りだ。このようなノマド暮らしをする人々は本編には、何人も登場し、ノマドコミュニティの様子やノマド生活者のリアルが映されている。

 

というのも、本編に出てくる殆どの人物が実際のノマド生活者、つまり役者経験の無い人々が映画に出ているのだ。この事前情報を知ることなく見ていたため、エンドロールでの表記で異変に気づき、大変驚いた。そこに何の違和感もなく交じるフランシス・マクドーマンド。違う世界線ウルルン滞在記みたいになってるじゃないの。

 

不動産や家族など、推奨された経済システムからはみ出た(はみ出さざるを得なかった)人々が、アマゾンのような大経済システムからの仕事をもらっている、というのはどこか考えさせられるものがある。そんなシビアな現実が映し出されると同時に、定住していないからこそ平原のど真ん中にキャンピングカーを止めて、マジックアワーを独り占めしているような美しい描写もある。実にアメリカを感じることのできる映画だ。

そういう研修VTR(『ガンズ・アキンボ』観たマン)

『ガンズ・アキンボ』を観た。

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ある特定の人達に最低限のルールは守って欲しいときに研修は行われる。私も、この人生の中で何度となく研修をしてきた。記憶の中にある初めての研修は、小学生の時に受けた交通安全の研修だったと思う。成人になればなるほど、研修を受ける回数は増えていった。マナー研修、挨拶研修、コンプライアンス研修、研修の鎧を身に着けた私はとうとう社会人と呼ばれるようになった。

 

そんな研修の鎧をまとえば防御力が完璧かと言われればそうではない。ふとした気の緩みから一撃で葬られてしまう場がある。衆人環視下のインターネット世界だ。『ガンズ・アキンボ』の主人公であるマイルズは、この気の緩みがきっかけで、とんでもない1日を過ごすことになる。お酒を飲んで、仕事ができない腹いせに、殺人バトルの闇サイトに、クソリプを送り、管理人とリプ合戦になったのが運の尽き。IPアドレスが特定され、ただの炎上野郎が犯罪者だらけの殺人バトルに巻き込まれてしまった。しかも両腕は改造され、手先が拳銃に。コブラだって片手だけだぞ。

  

この両手拳銃男を演じるのはダニエル・ラドクリフ。突然角が生える男をやったり、東急ハンズに売っててほしいマルチな活躍をする死体をやったり、端的に言えばやべえ役者だ。こうやって、立て続けにおかしい役が続いていくと、魔法丸メガネまでもぶっとんだ役に見えてくる。ただ、ぶっとび方の飛距離が遠くなればなる方が、ダニエル・ラドクリフの魅力が輝くのもまた事実だ。

 

殺人バトルの対戦相手は完全にイカれちゃってる女殺人鬼ニックス。ナイフにマシンガンにロケットランチャーになんでもござれ。この闇サイトのスター選手だ。ほぼ素人vsチャンピオン級。視聴率狙いの全盛期PRIDEを想像させる結果が見え見えのマッチメイクが組まれている中、マイルズはどう挑むのか。そして、生きて帰れるのか。

 

自分がマイルズになったら、と、想像する(すぐに想像をやめた)。だって、両手が拳銃になっているのだよ。シザーハンズをこえる不器用さ。スマホも上手に扱えなければ、ズボンを脱ぐのも難しい。なんせ、ふとした拍子に引き金を引いてしまったら待っているのは人生の終わりだ。唯一アドバンテージをとれるのは、ダンディ坂野のモノマネとソナチネのモノマネぐらいだ。

  

設定がぶっ飛んでいるという大フィクションということはわかっているけど、この闇サイトでの戦いに盛り上がっている観衆のカットを考えると、自分がこの『ガンズ・アキンボ』の世界の住民と、そう遠くはない世界にいることに気づいてゾッとした。踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆同士、阿呆ということに気づいていないのだ。炎上している張本人にどんな結末が訪れるか、傍観者のくせに楽しみにしている。物語が終われば、次の火災現場に向かう私たち。なんんだか似たような記憶があるぞ。派手なバイオレンスアクションはすっきりするけども、どこかモヤモヤ反省したくなる映画だ。これはいい研修VTRだ。

 

ということで、この『ガンズ・アキンボ』という研修VTRから学んだこと

①闇サイトにむやみにアクセスしない

②酔っ払った状態で、実況コメントを送らない

③傍観者だって加害者になりえる

 

日々、鎧を厚くしていかなきゃいけない。

なんかいろいろ(最近見たお笑いライブたちとか)

配信ライブがある日常にも慣れてきて、Wi-Fiしっかり整備の我が家はさながら東京ドームから新宿バティオスまで伸び縮みする箱になっている。

 

チケットは取れなかったから、配信になってしまったが空気階段「anna」をアーカイブで見た。我が家は草月ホールに早変わりだ。

 

ある男の生き様をコントにしたオープニングから立て続けの全8本。コント間のインターバルも、別企画の幕間VTRなどではなく、ライブに統一感を持たせるための仕掛けを持たせている。この「anna」の中で全体を通して描かれるのは、不完全な人々の愛だ。シンガーソングライターに知能犯、コンセプトカフェのオーナーなど、一癖も二癖もある彼らは社会になかなかなじめず不器用に生きているけど、そんな彼らだって、なにかに愛を注いでいる。その愛の部分が可笑しいのだけれど、彼らの愛を決して否定しない世界観が好きだ。くだらない人や物事を愛することで発生するエネルギーが巡っている世界にいれるなら幸せである。

 

特に、単独のタイトルにもなっている最後の長尺コント「anna」は圧巻だった。コントのキーアイテムとして深夜ラジオが出てくるのだけど、この深夜ラジオの妙なリアリティや、深夜ラジオのリスナー的ボキャブラリーが精巧で、作中に出てくる人物が、現実と地続きで存在しているように思える。「私達だけが知っている世界」で繰り広げられるラストコントは、『明るい夜に出かけて』や『花束みたいな恋をした』とも近い。あまりにも美しい単独ライブだったので、もう一度見直した。これが配信のいいところである。DVDも出るみたいだし、ひとつの愛の形として好きな人たちにプレゼントしようと思う。

 

 

こういう配信で見れる環境だけども、リアルで観に行きたいというのも心情だったりする。細心の注意を払う必要はあるけど、リアルなりの感情の高ぶり方はあるわけで。みんなでゲラゲラ笑うってなんであんな幸せになれるんだろうね。

 

リアルでライブを観に行った場所はEX  THEATER ROPPONGI。「トンツカタン森本のブチ切れデトックス2」がお目当て。このライブはトンツカタン森本さんが、様々なプレイヤーからのボケに対して、ひたすらブチ切れて健康になってもらおうというコンセプト。きっと日本でも有数の不健康な街でグラデーションシャツ男が徐々に健康になる姿を目撃しに来たのだ。

 

8組の参加者が順番に登場して、森本ブチ切れトラップを披露していくが、トップで出場したランジャタイ国崎さんが、冒頭で何度もT.M.Revolutionで入場するくだりだけで、このチケットの元をとったと確信した。そのあとも「オナラで空飛ぶナンチャン」が出たかと思えば、何体も登場する森本の等身大パネル。あきらかに等身大の2倍以上の森本パネルもあって、舞台の上はナミのミラージュテンポ(カリファ編参照)

 

岡田康太さんのブチ切れトラップは即興漫才。もう即興漫才という4文字だけでよだれダラダラのお笑いジャンキーたち。即興漫才って左腕に彫ってる外国人いたら絶対友達にする。ふんだんにボケを散りばめた港区家賃3万7千円男に「やっぱりこの人は漫才師」だなあと、新しい波16のときの衝撃を重ねるのであった。

 

Aマッソのパートは、まさかの参加型。チケットのもぎりの時点で配られた一枚の紙。そこには「①加納が自分のほっぺをタッチしたら拍手、②加納が自分の前髪を触ったら、立ち上がって拍手喝采、③加納が自分のアゴを触ったら①・②の動作をやめる」というもの。劇場型犯罪の共犯者になる権利を与えられた。主犯からのサインを逃さぬように集中して観劇する客席たち。あ、ほっぺ触った!拍手の音はすぐに大きくなり、会場を包み込む。キョトンとする森本。まさか彼のツッコミ刃がこちらにも向かってくるなんて。嬉しい。

 

ツッコまれているこちらもデトックスできているのはなんでだろう。きっと、街中で大声を安易を出せない今の世の中では、代弁者を求めているのだと思う。キレのあるツッコミは気持ちいい。すがすがしい。国民的ツッコミ、森本晋太郎。本当に武道館でやることになったら胸がアツくなる。

 

 

デトックス体験した週は連続してライブに行っていた。ブチ切れデトックスの2日後に、渋谷ユーロライブにてサスペンダーズの「Suspenders Guide」を観に行った。最近気になってたまらないサスペンダーズを主役にした企画。新ネタ含むネタ5本+見届人のトークというほぼ単独ライブの構成。単独ライブは、そのコンビのネタの特色が見えてくるから面白い。5本連続でネタが演じられた後に、ザ・マミィ林田さん、ラブレターズ塚本さん、ポテンシャル聡さんとサスペンダーズの2人で、作風を分析するトークが繰り広げられた。

 


サスペンダーズ『タイムカプセル』

 

このネタ後のトークで、日頃、自分がYouTubeでサスペンダーズのコントを見ながら抱いていた感情が言語となって再現されていく。人柄がコントに反映されているので漫才に近い。最速で設定を言っちゃう。そうだよそうだよ。サスペンダーズの作風が明瞭になってきた。

 

私が思うに、サスペンダーズのコントは「弱者のパンク」だ。基本的な設定で言えば、古川さんが社会の「外」の人間、依藤さんが社会の「中」の人間という立ち位置が多い。コミュニティや社会でうまく馴染めず、内へ内へ感情が入った結果、古川さんの叫びが爆発する。ここがサスペンダーズの魅力なのだ。

 

ただそれは叫んでいるから面白いというわけではない。きちんと社会に適応できている人間を依藤さんが不自然なく演じているから、コントのベースラインが確立されており、そこに魂のシャウトが美しく重なるから見ごたえがある。よく2人同時のタイミングで違うセリフを言う展開があるが、ベースとメロディのように聞こえてくる。まさに「弱者のパンク」。日常生活の中で無意識に感じている(ひょっとしたら感じ取れないほど小さいものかも)社会や、社会に適応できている人々への違和感がシャウトされるからたまらないのだ。