砂ビルジャックレコード

カルチャーの住民になりたい

今日も夏のどこかで(『Summer of 84』観たマン)

『Summer of 84』を観た。

 


SUMMER OF 84 Trailer (2018)

 

「大人になる」って「物事を知りすぎってしまった」ことだと思う。日々の生活の中で、自分の所属する社会の答えや常識を知っていれば大抵のことはやり過ごせるわけで、だけども、その答えや常識に固定されてしまう副作用が起きる。それ以上の「なぜ?」「どうして?」という疑問に行くことさえも出来なくなる。進路だけじゃなくて思考回路までもだんだんと絞られていくのが大人なんじゃないか。

 

その分、子供は知らないことが多いから、好奇心旺盛だ。(知りすぎる状態の前段階だ)成長するにしたがって、見える世界もどんどん変わっていくし、行きたい世界に行けるようになっていく。そうして、子供たちは冒険に出る。とはいえ、車の運転までは出来ないから自転車という最強の武器を手にして、近所の周りの謎を明かそうとする。

 

 この『Summer of 84』は文字通り1984年の夏の話だ。アメリカのオレゴン州のとある郊外が舞台。思春期の子どもたちをターゲットにした連続殺人事件が起こっており、この郊外に住む少年のデイビーは、隣に住む警察官のマッキーが殺人鬼ではないだろうかと疑心に思ったところからひと夏の冒険物語が始まる。

 

デイビーは同い年の友達とともに、マッキーが犯人である証拠を探そうと、"捜査"をはじめる。オカルト好きな少年デイビーの推理は信じられないが、もしかしたら犯人かもしれない...と煽る演出に息を呑む。ちなみに、この映画のキャッチコピーは「連続殺人鬼も誰かの隣人だ」うーん、たしかに背筋が冷たくなる言葉だ。そういえば少し前にも、日本でもシリアルキラーのニュースが報じられていた。いまの僕らは隣人の顔も知らない。

 

物語の冒頭で、デイビーがマッキーと一緒に地下室へ物を運ぶシーンがあるのだけど、その場面での違和感の作り方から映画の中に魅入られてしまった。地下室で連続殺人といえば、ジョン・ゲイシーが思い浮かぶ。ゲイシーのように、社会的に立派な表の顔とは違う、どす黒い裏の顔がマッキーにはあるのではないか、と、どこかでこじつけだらけのデイビーの推理を観ていくうちに信じてしまいそうになる。

 

果たしてマッキーはシリアルキラーなのか?そして、犯人が判明したあとに、怒涛の展開が訪れる。ここからがクライマックスだ。目をつむってやり過ごしたいほどの衝撃に放心状態となった。

 

「大人になる」ことは「知りすぎる」ことだ。今日も夏のどこかで、想像もしたくない事件が起きている。そこで知ってしまった、知りすぎたことを共有できずに大人になった人がいる。僕らはそういう大人たちと同じ世界を過ごしている。

 

 

ゾンビだって鮟鱇だって(『WE ARE LITTLE ZOMBIES』観たマン)

『WE ARE LITTLE ZOMBIES』を観た。

 


"WE ARE LITTLE ZOMBIES" Official Trailer

 

昔はなかなかカルトだったゾンビ映画も、今では市民権を得た気がすると思うのは私だけではないはずだ。きっと渋谷でゾンビの認知度調査をやったら100%だろう。(渋谷だから)その存在が認知されていれば、人々はそれに例えて、伝えることができる。「終電でゾンビのように家に帰る」「ゾンビのようなターゲットへの執着力」「青春ゾンビ」と、いたるところでゾンビは発生しているし、人間はゾンビと共存している。たまにゾンビになったりもする。

 

この『WE ARE LITTLE ZOMBIES』も「ゾンビ」という言葉を用いた表現のひとつだ。主人公は4人の子供たち。彼らは全員両親を亡くしたという共通点を持つ。感情の乏しさや、社会のコミュニティに属せなくなったもの=ゾンビとして生きていく彼らの冒険の物語。曇り空のスタンド・バイ・ミー

 

全体を覆うレトロゲーム的な映像表現やピコピコとした音楽の持つ無機質さと親しみやすさが『LITTLE ZOMBIE』と称された彼らのイメージとピッタリと重なる。チップチューンと死ってなんでこんなに相性がいいんだろう。教会とかシオンタウンとか。4人は無表情で淡々と語ることが多く、かえってセリフがズサッと突き刺さる。そういえばゲームするときって顔の表情死んでいるよね。

 

彼らは冒険の途中で音楽の力を手に入れる。4人でバンドを組んでから彼らの世界は彩りを取り戻しはじめる。バンド名はもちろん「LITTLE ZOMBIES」だ。この音楽の力で、暗い世界から徐々に光が差し込んでいく感じや、次のステージに進んでいく感じは、お正月に放送された「Eテレ ココロの大冒険」と雰囲気が通ずるものがある。今作のほうが、よりケミカルでダークだ。題名とおなじ『WE ARE LITTLE ZOMBIES』が流れるシーンはこの物語のクライマックスだ。

 

もし、この「LITTLE ZOMBIES」の音楽が世間に受け入れられたら、、、そのifも本作で描かれている。これを大逆転劇と呼ぶのか終わらない悲劇とか感じるかは受け手次第だろう。音楽性でだけなくそのアーティストのパーソナリティーやドラマ性まで求めてしまう観衆の我々なのだ。バンドのメンバー全員両親を失ったって、そんなこともお構いなしに消費する我々なのだ。観衆が一番の恐ろしい生き物なのだ。

 

悲劇のヒーロー/ヒロインを監視したい欲望を自分が持っていたことに気づいたとき、愚かさを恥じるけど、改めることなんてできない。ゾンビだって鮟鱇だって残さずに骨の髄まで堪能する。自分の養分とする。堪能したらごちそうさまって言うのを忘れずに。それがせめてもの礼儀だ。

 

 

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タピオカン侵略戦争

とうとう、タピオカミルクティーを飲んでしまった。梅雨明けの暑さにも負けてとうとう手を出してしまいました。自首します。横浜中華街や台湾でタピオカミルクティーを飲んだことはあったけど、現在の日本に吹き荒れる雹のようなタピオカドリンクスタンド乱立ブームに負けじと耐えてきたのだが、とうとうその波に私も飲まれてしまった。飲まれて飲んでお腹タプタプまで飲んで。河島英五

 

しかし、雨後の筍みたいなタピオカ屋さんの勢いが凄まじい。とうとう自分の家の徒歩圏内にも出来た。怖い。東京の都市部に行けば、どこに行ってもタピオカ屋が等間隔でそびえ立つし、もうこれは一種の監視社会だ。パノプティコンだ。逃走中のミッションに失敗して100体のハンターが放出されたらこんな感じなんだろうな。誰だよ自首したの。

 

看板でもネットでも、タピオカという文字が目について、ゲシュタルト崩壊してきている。大きい文字でデンと書かれたタピオカと見ていると、あることに気づいた。

 

 

タピオカ

 

 

「タピ」の2文字に注目すると「死」という文字に似ている。 そのことに気づいた瞬間、私は最悪の終末を想像した。「タヒ」の横につく不自然な半濁音。これがタピオカなのだ。タピオカが死を司る悪魔であることを示唆しているのである。

 

甘くてもちもちした黒光りする顔の裏には、とんでもない野望が隠れていた。それはタピオカによる人類の制圧、地球の侵略だ。徐々に増えるタピオカドリンク店が増えているのも、私達、人類のデータを集めるためだ。いかにも低コストで儲けたい人類を見つけては洗脳する。タピオカドリンク店を開業させ、監視システムさえ作り上げれば、あとは戦略に則って、着々と残りの人類を支配していくだけ。

 

一部の人類は、その陰謀に気づいたが、すでに残りの人類の脳はタピオカのようにぷるぷるにされてしまっていた。すぐにミルクティーで出来た風呂に入りたがって話にならない。自然環境にも問題が起きていて、砂浜に打ち上げられた大量のタピオカをBBCが報じている。エベレストもタピオカだらけのようだ。ここまで来たらタピオカとまともに戦っても勝ち目はない。苦渋の決断だが、新たな惑星へ移住しよう。

 

東シナ海近くにに突き刺さった巨大なプラスチックストローを滑走路に、僕ら一部の人類は球状の方舟に乗り込み、地球を勢いよく脱出する。きっとまた、ぼくらの星に帰ることができるさ。何の説得力もない言葉だけど、こう言ってみんなを勇気づけることしかできなかった。黒く艷やかに光る地球はだんだん小さくなって見えなくなった。