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ハッチポッチど真ん中世代(『ボヘミアン・ラプソディ』観たマン)

ボヘミアン・ラプソディ』を見た。 

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私みたいに生まれたときからCMやBGMでQUEENの音楽を知った人たちにとって、QUEEN、あるいはフレディ・マーキュリーの存在というのは軽く見ているのかもしれない。英語に強くなくても簡単な英単語で口ずさめる。フレディ・マーキュリーの見た目インパクトがすごい。きっと深掘りしなければこの程度の知識だし、少なくとも僕は『ボヘミアン・ラプソディ』を観なければずっと彼らが世界に遺した偉業を当たり前のものとして受け取って生き続けていたはずだ。

 

前身バンドであるスマイルからQUEENが結成されるところから『ボヘミアン・ラプソディ』は始まる。そもそもフレディ・マーキュリーが移民だってことも知らなかったし、「マーキュリー」どころか「フレディ」までも自ら名乗ったことも、過剰歯だったことも。そもそも過剰歯という言葉さえも。フレディから教わるものは非常に多い。徐々にスターダムを駆け上がる彼ら。そして、表題ともなる『ボヘミアン・ラプソディ』の制作風景が描かれる。

 


犬のおまわりさん with QUEEN

 

特に物心ついたときからハッチポッチステーションを見て育ってしまった我々のような世代においては、『ボヘミアン・ラプソディ』は知らず知らずに身にしみている音楽であって、なんなら原曲の方に違和感を覚えてしまう。ピアノの伴奏が強くなってきたら、それは「犬のおまわりさん」が始まる合図なのだ。ママの名前は美代子なのだ。ハッチポッチステーションのパロディもおかしいけども、原曲だってもっともっとクレイジーだった。突然のオペラて。この曲が評価される世界で良かった。この作品が世に出なかったら、、、と考えると巡り巡って僕の人生も少し変わっていたのかもしれない。

 

物語のクライマックスはLIVE AIDウェンブリー・スタジアムの何万人の前でのライブ。これが圧巻だ。QUEENの目線で、その大観衆を見渡せるだけでも清々しいのに、ライブも味わえる。僕の大好きなRadio GaGaもやってくれた。こんなに幸せになれる映画はあるのだろうか?全てはハッチポッチの下地のおかげだ。

M-1グランプリ2018の感想を書かせてください

気づけばこの季節がやってきて、そしてあっという間に過ぎ去ってしまったM-1勝戦。今年も素人ながらグダグダ言いたいことがあったので書かせてください。私は所用があったのですが、なんとかスタート間近に帰宅。本戦から視聴しました。

 

去年からルール変更はなし。もう笑神籤に適応しちゃってる芸人さんのみなさんが素晴らしい。とはいえ、1番で出た見取り図はかわいそう、、、ってなっちゃう。誰も悪くないのに。こんな方法思いついた放送作家だけはお尻ペンペンの刑ですね。去年からの恨みは消えませんでした。

 

なかなか大爆発が起きないもやっとした前半から中盤の流れ。こんな展開ははじめてだったんじゃないかな?4番ジャルジャルのネタも面白かったんだけど去年のピンポンパンゲームのイメージが強すぎて、それを超えられなかったなあというのが個人的な感想(ピンポンパンゲームのアプリまだやっている)。

 

結果的に見れば後方の順番の霜降り明星と和牛がワンツーになる結果に。霜降り明星は最初から2発続けて大きい語彙を使ったツッコミが当たったからそこで空気をものにした感じだった。語彙の力で掛け合いの技術をねじ伏せたのだ。豪華客船という様々な人々が集う場所を設定とし、色々な人間をせいやに落とし込み、それをひたすら粗品が斬っていく。優勝した学校も特定多数の人が集う場所だ。そのシステムを信じて突き進んだのが良かったのだろう。

 

和牛はなんなのか、M-1の見えない力に弄ばれているとしか思えない。笑い飯もそうだし、わ行の実力者は報われない運命なのだろうか?一本目のゾンビのネタも、”役柄の交代”という漫才で定番の展開を見せながらも、「ゾンビウイルスが感染する」というゾンビ映画のお決まりを利用して、「実は先に感染していた」と、伏線を回収したのは素晴らしかった。ネタの設定チョイスに感心してしまった。

 

そう、和牛で特筆すべきは展開のつなげ方が群を抜いて美しかったことである。決勝の「オレオレ詐欺」のネタでも1回オレオレ詐欺の全体の流れを見せながら、2週目でさらなる展開に持っていく。その2回目の導入見た?水田さんが「ロケの合間で来た」と距離を起きながら、すっと2週目がはじまる。観客はその後の流れを一度学習しているから和牛は説明せずに、1週目のボケにかぶせることができるのだ。とにかくこのシームレスな展開のつなぎ方と発展させ方に感動してしまった。最後の「もうええわ」の芸術点◎

 

展開の良し悪しが決勝経験組の明暗を分けたと思う。スーパーマラドーナは田中さんが強く扉を閉めたところがピークでそのあとは「正常な狂気」vs「狂った狂気」の戦いが平行線で続いたままだった。たとえば田中さんがカレーを振る舞いたかった理由などをサブストーリーラインで作るともう少し深みが増したんじゃないかなあと。あくまで素人意見です。

 

一方、展開に縛られすぎたんじゃないかな?ってのがゆにばーす。設定が「遊園地にロケ行ったらカップルと間違われる男女コンビ」ってもうねじりすぎた状態から始まってるもんだからついていけない。展開自体はしっかり考えられてて途中の古風な漫才をするというのは裏切られたんだけど、裏切られる前の土台が前衛的すぎちゃったなあという感じ。

 

ミキはいい意味でも悪い意味でもお茶の間向けの漫才といった印象。他人に履歴書送られるなんてジャニーズ以外しかないでしょ。想像の範囲内でまとまってしまったというか。もっとヒヤッとする言葉のチョイスが出来たでしょうに。

 

トム・ブラウンはほんとうに順番がよかった。みんながいろんなネタを見て疲れているなかで「何を見させられているのだろう?」と麻痺されている感覚が最高だった。会場の空気を変えてしまった漫才だったと思うし、それで霜降り明星の爆発につながったんだと思う。(明星の爆発って天体感出たね。)トム・ブラウンは、あのシステムがわかってくるとニヤニヤしちゃうんだよね。いい意味のネタバレ感。

 

ああ、また1年後。早く来いとも思うし、小宮さんの「松ちゃん待っててね〜」が聞きたいけども、もう1日1日がゆっくりすぎて芸人さんたちが最高のネタを作れる時間が増えてほしいとも思う。あんな緊張感の中、高クオリティのネタを高クオリティのパフォーマンスでできる芸人さんたちは本当に国宝だ。

 

そしてこの1週間後に行われるTHE Wがほんとうに不憫でならないのです。

 

湖の底を知りたい(『アンダー・ザ・シルバーレイク』観たマン)

アンダー・ザ・シルバーレイク』を見た。


映画『アンダー・ザ・シルバーレイク』予告編

 

初めて見た映画なのにどこか既視感を覚えることがある。そう、それは例えば、過去に見た映画と同じロケ地であったり、同じもの・概念が物語のヒントだったりする。そこに我々は共通性を生み出し、文脈を感じる。頭の中で整理するとき同じタグをつけるから必然的に、そのタグを媒介して知識の海が少しずつ広がっていく。

 

アンダー・ザ・シルバーレイク』はロサンゼルスの街、シルバーレイクを舞台にしたとろけたくなるミステリーだ。主人公は堕落した青年のサム。そんなサムの近所に美女が住んでいることがわかり、彼は美女に心を奪われてしまう。逢瀬の約束をとりつけるなど意気揚々のサムだったが、 突然、近所に住んでいた美女がいなくなる。もぬけの殻となった住居の壁には謎の印があるなど意味がありげだ。サムはその美女の居場所を突き止めようと行動をはじめる。その捜索のなか、サムは、この街に隠された真実に近づいていく。

 

と、あらすじだけ書くと「失踪した美女と、街に眠る謎の正体」を暴くミステリーなんだが、いや、たしかにミステリーなんだけども、この映画は一筋縄ではいかない。その本筋のまわりに幾重にも巻き付けられた周辺の情報に心を奪われてしまう。たとえば突然あらわれる謎の男、なぜかつながる暗号たち、秘密のパーティー、家の近くのスカンク、、、、心の中で整理しようと思っているんだけども、気づけば次の展開で新たな謎が心の中を荒らしていく。つながるようでつながらない、、ああ頭の中はぐるぐるぐるぐるグルコサミン。

 

ロサンゼルスが舞台というのは、この映画を「解釈」する上でのひとつの暗号になる。ハリウッドなどエンターテインメントの総本山である一方で、その頂点で暮らせる人はホント一握りだ。夢に勝ち負けがある街だ。(『ラ・ラ・ランド』で学んだ)そんな街で暮らすサムも立派な負け組に見える。

 

というかサムがやべえ。家賃は払えないし、仕事をしている場面なんか微塵も登場しない。明日にはホームレスになるかもしれないというのに、ホームレスを軽蔑しているところなど最高にクズだ。元カノは広告看板のモデルになっているし、世の中には"自分以外"の作品や仕事でキラキラと溢れている。徹底的な負け組だからこそ、人生の諦めに近い感覚で、その美女を取り戻すことに魅了されていく。そのクズの性欲、自己顕示欲、一発逆転欲が程よく最悪に混じり合って、彼は底なしの湖に陥る。ここまで純粋な現実逃避は観たことがない。

 

そして、シルバーレイクの謎を解き明かそうとするサムもなかなかにキツい。妄信的というか、主人公気質がえげつない。自己顕示欲たっぷりボーイだ。彼を少し俯瞰的に見れば、勝手に美女を探そうとし、勝手に暗号を解き、勝手に解釈し、勝手に真相(らしきもの)に近づいた(気になっている)男なのだ。なんでこんな自慰行為を見させられているのだろう。しかし、映像感覚の美しさに観客は席を立てない。どころか一緒に湖に落ちていきたくなる。

 

「この暗号は、〇〇を示唆している!」なんて映画の真相や裏側を知りたいとする我々そのものではないだろうか。ある意味サムは観客代表のクズでもある。「解釈」の仕方で、陰謀論的な映画にも、ただのナンセンスコメディ映画にも位置付けすることができる。解釈の余白を与えられ、そこで踊り狂ってしまった時点で我々はとっくにこの映画の虜なのである。