自分磨き論
自我っていうものを持ち始めてから
しばらくたって誰もが「自分探し」「自分磨き」という言葉にぶつかる。
しかも「自分探し」は半ば強制的にやらされるもので、
見つからない人だっているのに。
「自分探し」をしているなかで、
誰かが「何をお探しですか?」と尋ねてきて
結局は夢の中へ行ってしまう。
そんな井上陽水的妄想をしても
「自分」は現実のままにいるわけで。
でも、そんな試行錯誤の中で
なんとなく「自分」がわかってきて、
形になっていく。
形になったところで、今度は
かっこいい「自分」になるように
「自分磨き」を始める。
なんか「自分磨き」っていわれる
生け花とか、ダンスとか
ぼんやりした「自分」を好きな形に創りあげたいものでしょ?
これって僕の中では「磨く」って感じじゃない。
どっちかっていうと「研磨」より「彫刻」に近いんじゃないかなと思う。
いうならば「自分彫り」
まだ明確じゃない「自分」を趣味やらお稽古やらで
どんどん彫っていく。
きっと「磨く」のは、そのあと。
自分をある程度形にしてから仕上げとして「磨く」もの。
「磨く」ってなんだろう。
僕が思った「磨く」は「削る」や「捨てる」に近い。
「自分磨きって内面から良くするってイメージが
一般的なんだろうけど
本当は、外面=環境で、今の「自分」にとって
理想の「自分」には相応しくないことを捨てることではないかと。
磨きたいってことは光りたい、注目を浴びたい。
他人から「この人いいな。なにか光ってるんだな」と思わせたい。
そのために、自分の光らせたいものを世間に見せるために
磨いていくんじゃないかな。
というお話。