砂ビルジャックレコード

カルチャーの住民になりたい

大阪だらだら旅行3

もう2ヶ月前のことだけどなんとか写真を頼りに当時の感情を思い出そうとしているよ。話は2日目のお昼で終わっておりました。

 

takano.hateblo.jp

 

メインイベントとは、大阪城ホールで行われる小沢健二のライブである。満島ひかりがバンドメンバーに入っている?との報道があり、それは本当なんだろうけど、でもこころのどこかで、信じられない気持ちが少し残っていた。ライブが始まり明かりが付けばそこにはいるじゃんよ!本物のひかり!私はこの瞬間肉眼で満島ひかりを観た稀有な人物になったのだ。やったー!

 

最初から最後まで出演していた彼女は、妖精のようであった。というか妖精だ。歌う小沢健二の前で傘を差したり、『ぼくらが旅に出る理由』ではMVの真似事。大きな歯ブラシで歯を磨く動作に惚れる。緑の照明をコントロールしたり、プラスワンとしてライブに新たな風を吹かせる。

 

ときに満島ひかりは、小沢健二の女性版キャラクター的なポジションだった。主人公の性別を選べることに「そういえばそうだよな」と子供心に感じたポケットモンスターサファイアを思い出した。 男子(の気分)、女子(の気分)、こういう多様性を(言葉として的確なのがわからないけど)面白がりながら、わいわいみんながひとつになっていく瞬間であった。生活に帰っても、生活の延長線に春があることがわかったから僕は嬉しくなった。

 

ライブ終わりの21時過ぎにやってるカレー屋さんは少なかったけど、開いていた谷町六丁目の「アララギ」で2発目のカレー。1日2食カレーでも問題ない体になっていた。好きこそものの上手なれ。

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カレー居酒屋のような店内が妙に落ち着く。カウンターでカレーを食べていたのだが、隣の女子二人組がずっと恋愛話をしているのが聞こえてくる。自分がバイトの先輩のコーイチくんでなくてよかったと思った。

 

 

 

すごい女系ヒストリー(『パティ・ケイク$』観たマン)

パティ・ケイク$』を観た。

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もういい年だというのに、ごくたまにラッパーになりたい時があり、YouTubeや歌詞サイトを駆使して研究しだす夜がある。ピアノもできない、ギターもベースもドラムも何の楽器もできないまま大人になってしまった者たちへの救いの手がヒップホップなのである。言葉は読める。韻も踏める。国語の成績は比較的よかった。(古文は苦手だったけど)今からビルボードのナンバーワンを目指すなら、楽器を習うより言葉を極めたほうが多少チャンスがあると錯覚する。そしてノートに書き始めるのだが、なんにも思いつかないというところで、一時的に夢が覚める。

 

きっとこういうことを考える人は自分だけじゃないはず、と確信したのが入江悠監督の『サイタマノラッパー』シリーズだ。北関東に住む若者たちのヒップホップを手段とした現状への抵抗は泥臭くて美しい。その泥臭さや美しさを再度感じる機会に恵まれた。『パティ・ケイク$』の主人公、パティだ。美しいスタイルとは言えない彼女もラップスターに救われ、ラップスターを夢見るひとり。車椅子のおばあちゃんとロックバンドの元ボーカルでアル中の母親との3人暮らし。これといった定職もなく一発逆転したくなる家庭環境。

 

彼女の才能に惚れた親友ジェリの行動力のもと、謎のトラックメイカー・バスタードとともにアルバムの作成を開始する。feat.パティのおばあちゃん。おばあちゃんの声をサンプリングするなど自分のルーツも何もかもぶちこんで魂の一枚を作り上げるシークエンスが好きだ。何事も作って世間に届けない限りは始まらないものね。成り上がるための階段は自分でこしらえるのさ。

 

おばあちゃんを巻き込む一方で、アル中母ちゃんとの対立構造も見逃せない。母vs娘。ロックvsラップ。バーテンvsアル中。夢破れた者vs夢を掴もうとする者。この世代闘争の結末にホロっと来てしまった。ラップスターを目指す成り上がりストーリーであるとともに、一癖も二癖もある母娘3代が連なった家族のヒストリーでもあるのだ。

 

最後に微かに韻踏めたのでだれか褒めてくれ。

すぐ水浴びる(『君の名前で僕を呼んで』観たマン)

君の名前で僕を呼んで』を観た。

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夏が苦手である。というよりジメジメした気候が苦手であるといったほうが的確だ。しとしとと降り続く雨が止んだと思えば湿気と高温のマリアージュ。Tシャツ1枚で外に出られる嬉しさはあるが、どくにかかったように湿度によって歩くたびに少しずつ体力が奪われる。ミックスオレで適宜回復しなければやっていけん。どうしてこんなに東京の夏はむっつりなんだろうか。

 

それに比べて避暑地の夏はなんと気持ちよさそうなことか、もう映像を見ているだけで快適だ。(そして映像を見ているときにはクーラーが効いている。)からっとしてて夏とはこうあるべきだよねと僕の全細胞がうなずいている。この『君の名前で僕を呼んで』はそんなイタリアの避暑地が舞台になる。

 

避暑地でひと夏を過ごす大学教授一家の息子・エリオと、その教授の教え子・オリヴァーとのモラトリアム。まだ同性愛に寛容ではなかった1980年代の香りを残しながら甘酸っぱい物語が繰り広げられる。エリオは線の細い青年(にもみたない少年かもしれない)で、音楽に才能のあるタイプ。同世代の女の子とデートしたり、オリヴァーともデートしたり、多感に夏を過ごす。大きな修羅場は訪れず淡々と夏の中心で開放的に輝く姿が羨ましい。踊って、食べて、愛し合って、こんな夏、今まで過ごした頃あるのだろうか、俺。

 

いちばん羨ましく感じたのが、すぐ水浴びるシーンが連発しまくる瞬間だ。太陽が輝いているシーンが出てくれば、気づけば画面のうちの誰かが水浴びへ行っている。すぐ脱ぐやんけ。日が落ちたと思ったら夜の静けさで聞こえる波の音。二人だけの水面デート。でも、これって本来の夏の涼み方だ。開放的ー!くぁいほうてきー!!そう、僕らは、水辺に入るとき躊躇してしまう。スマホにイヤホンにウェアラブルバイス。あれ、これ防水だっけ?ってなってしまったら、もうおしまい。便利と引き換えに夏の楽しみの真髄から遠ざかっていたのだ。

 

じりじりとお互いの心を理解し合うエリオとオリヴァーの距離感が愛おしい。なんだか日本的な距離の詰め方だ。からっとしてるイタリアの気候の中でうごく生の感情がそれがとても切ない。モラトリアムのピークと終点はなぜこんなに美しいのだろう。