砂ビルジャックレコード

カルチャーの住民になりたい

こんな世界、一回ぐらい(『ブルーアワーにぶっ飛ばす』観たマン)

『ブルーアワーにぶっ飛ばす』を観た。


「ブルーアワーにぶっ飛ばす」予告編

 

夜ふかしして眠れないときに、家から最寄りの駅のコンビニまで歩いたことがある。いつもは忙しなく人々が歩いている駅前はガランとしていて、駅前としての目的をなくしているようだった。空は絵の具から出したばかりのような青色で、徐々に明るくなっていった。澄んだ空気を伝って聞こえるのはカラスの鳴き声と、商品を荷降ろしするために停車しているトラックのエンジン音だけで、なんとなく世界の裏側に来てしまった気がして、ますます目が覚めてしまった感動があった。コンビニの夜勤の店員さんがいることもなんか嬉しかった。そのコンビニで買った缶コーヒーを飲みながら歩いた帰り道は日常のハイライトのひとつだ。

 

日が昇る直前の瞬間や、日の出後の瞬間のことをブルーアワーと呼ぶのだそうだ。濃い青色のまどろみが、2つの世界をつないでくれるわずかな時間。そっか、自分はブルーアワーにコンビニへ歩いていたのか。

 

『ブルーアワーにぶっ飛ばす』は、砂田という女性CMディレクターが田舎に里帰りする物語だ。東京では激務に明けくれ、W不倫もしている破滅的な生活をする砂田が、母からの連絡をきっかけに、友人の清浦と共に茨城の故郷へ顔を見せに行く。砂田を演じる夏帆のちょうどいいやさぐれっぷり、東京への浸かりっぷりが美しい。

 

 

茨城の田舎に着いたはいいが、なんだか馴染まない砂田。車で2時間ぐらいの距離しかない東京と茨城なのに、こうも過ごしやすさが違うのか。いや、東京だって茨城だって過ごしにくい。砂田・清浦と茨城の人々の会話の噛み合わなさがおかしいけど、鎧をまとって生き延びている都民のぼくたちの心は苦しくなる。

 

砂田の母親である南果歩のおっかちゃんぶりが見ものだ。ある種、人生の最期が近づく中で、諦めきったような生活観と、それでも生き遂げなければいけないタフネスさ。きっとこの先も、このおっかちゃんは親族のイベント以外は旅行しないであろう土着的な雰囲気。なんだかこんな人に育てられた気がするのは何故だろう。汚いキッチンでの独白はこの映画でのショッキングなシーンのひとつで、じわじわ胸が痛くなる。

 

故郷の母や祖母は死に向かっていて、だけども東京の私は社会的に死にかけている。八方塞がりなのかもしれない。そんなどこにも所属できない者たちにとってブルーアワーは、優しく包み込む。身動き取れないんだったら、こんな世界、一回ぐらいぶっ飛ばしたって文句言われないよね。

口内炎上

気づけば口内炎が出来ている。その存在に気づいたときの落ち込み具合は意外と大きい。この痛みは人生で最も悩まされている時間のうちのひとつなんじゃないかと思う。口の中では、誰にも苦しみを共有できずに、ひとりで静かに数ミリ程度のクレーターと戦っている。まともな生活をしているふりをして。

 

生命活動での必須事項である「食べる」という行為に確実にダメージを負うのだからつらい。辛い食べ物と、思いっきり塩粒が露出した食べ物のことが好きなのにそっぽを向かざるをえない。理由なくそんな態度を取るものだから、彼らにとっては気分のいいものではないだろう。複雑な恋愛感情みたいなことを起こして、彼らに申し訳がない。

 

彼らのことをどうしても食べたい時は工夫を強いられる。たとえばカレーは口内炎が出来てないエリアにスプーンを忍ばせて、そっと押し込んで、引く。刺激に細心の注意を払っているから顔を歪ませながら片方の顎だけを使って咀嚼をする。ただ、大抵カレースプーンは口内全体を覆うので、何かしらが口内炎接触する。ちょっと涙目になってしまうから、周りから見れば「涙を流すほど美味しいカレー」と誤解されている。正しくは「美味しいけど痛い、やっぱカレーにしなきゃよかった」だ。

 

塩味の食べ物も躊躇が必要だ。心と体を堕落させてしまう食べ物の代表格、ポテトチップスだって、口内環境最悪の状態においては、ただの刃にすぎない。それでも食べたいときある程度細かく砕いて、接触面積を小さくしてから食べる。ただそれはチップスというよりフレークであることは、自分では内緒にしている。ああ、満足に堕落が出来ない!

 

こうやって小さな小さなストレスが溜まっているから、闇落ちしてやる!と思ったけど、ジョーカーにもなれることができない。人さし指で、無理やり口角を上げようとしたら、口内炎に触れて痛いだけ。笑うときもおちょぼ口になってしまう。おちょぼ口ジョーカーなんて、それはもうひょっとこだ。ジョーカーになれないイライラも積み重なったので、あの腰を振るダンスで気を紛らす。

 

そんなエブリディにおいて、最近は口内事情が悪化の一途を辿っている。ようやく蔓延っていた口内炎が治りかけたと思ったら、別の場所に小さい口内炎が生まれ始めるようになった。右側の奥側にできた口内炎を庇うために、左側を重点的に使っていたら、今度は左側にそれらしき痛みが現れて、その繰り返し。決して口内炎がゼロにならないのだ。

 

まるで守備が弱いプロ野球チームみたいに、永遠に1アウト1塁で気が休まらない場面が、口の中のスタジアムで再現されている。せっかくゴロを打たせたのにゲッツーが取れない。俺の口内野陣の守備に締まりがない。こういう締まりのなさからリズムが崩れて大量失点につながるんだ。うまくジュースが飲めなくてこぼしてしまったり、歯ブラシで誤爆したり。気づけば、5失点、6失点。今日も負けゲームだ。ピッチャーは悪くないよ。

 

いち早く、私の口内守備を整えてくれる有能コーチの招集が不可欠である。

 

 

 

「私とビートルズ」のエピソード、誰でも持ってる説(『イエスタデイ』観たマン)

『イエスタデイ』を観た。


映画『イエスタデイ』予告

 

現代人は生活していれば、必ずザ・ビートルズを聞いている。CMや店内やイベントのBGMで、何度も、そして何曲も耳が覚えている。私だって中学校の英語の授業でビートルズを何度も聞いた。リスニングのウォームアップとして、ビートルズの曲の歌詞の穴埋めを先生が用意してくれた。知らない言語を聞き取れて、意味を知った喜びは今でも身についている。これは特別なエピソードだと思っていない。きっと今を生きる人たちは「私とビートルズ」というエピソードを誰でも持っているはずだ。

 

そう、ビートルズがいなければ、ロンドンに旅行したときにアビー・ロードを渡ることはなかったし、シャロン・テートもマンソン・ファミリーに殺されることはなかったし、ラグビー会場で"Wonderwall"を大合唱する瞬間も訪れなかった。現代はビートルズ以前、ビートルズ以後に別れている。

 

そのビートルズの記憶が突然この世界からいなくなってしまった。というのがこの『イエスタデイ』のストーリーだ。唯一、ビートルズの記憶がある男して描かれるのが売れない歌手のジャックで、再構築されたような世界でその記憶を蘇らせながらビートルズの曲を自分のものとして発表していく。曖昧な記憶を辿るためにリヴァプールへ、リサーチへ向かう場面はなんだか愛が溢れていた。

 

直撃世代でない僕らが聞いても色褪せない名曲なわけだから、現代でもジャック(っていうかビートルズ)の曲は評価されて、ついにはエド・シーランともコラボしたりする。ジャックは自分のものでない曲を新作として発表する苦しみを抱えながらスターダムへ駆け上がっていく。

 

作中は絶え間なくビートルズの曲が流れていて、それだけでもう幸せだ。往年の名曲を初体験として受け止める観客の反応やライブシーンの熱狂は微笑ましい。曲がバズればあっという間に世界に広がる現代ならではの描写も見逃せない。「あの曲がリリースされたときは衝撃だったね」と語るビートルズ古参のアイデンティティ追体験する喜びがこの映画にはある。

 

ビートルズがいなくなった世界であって、ビートルズだったはずの4人がいなくなった世界ではないという描き方も素敵だ。つまり...そういうことだ。再構築された世界であのロック・ヒーローはどういう人生を送っていたのか、もしもの世界を徹底的に発展させている。それだけ僕たちは、ビートルズというバンドが辿ったストーリーが頭に染み付いている。さて、あなたのビートルズに関するエピソードはなんですか?