砂ビルジャックレコード

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私があなたを見てるとき【アフター・ヤン】

『アフター・ヤン』を観た。


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スマートスピーカーを持っている。声で反応するのだけど、自分が指示を出したときに「すいません。よく聞き取れません」と言われると、イラッとしてしまう。たかがスマートスピーカーなのにとプチアンガーマネジメントをして落ち着くまでがルーティーンだ。人間相手でもそんなに滑舌よく聞き返されることなんかないのが気持ち悪く感じるからなんだろうか。

 

『アフター・ヤン』はやがて来るだろう近未来の家族の形を穏やかに描いた作品で、静かに時が流れていく。フレミング家では夫婦とその養女、そして中国人設定のAIであるヤンが幸せな生活を送っていた。ところがあるとき、ヤンが突然動かなくなる。どうにかしてヤンを復活させようと色々駆け回る父親だが、その再起動の方法を探している中で、ヤンの記憶データを手に入れ、ヤンの見ていた景色を知ることになる。

 

余命宣告や突然死などと違う。突然の停止というモノならではの別れ方を経験しているのにそれがヒト型AIになると不思議な感情になる。原因がわからないから、もしかしたら息を吹き返すかもしれないという一縷の望みがときに残酷な状況を生み出し、養女のミカの気持ちに寄り添いたくなった。

 

ヴィンテージの古着が好きな人は、この服がどこから来たのか、誰が着ていたのか、思いを馳せたりすると聞いた。それは古着のデザインであったりクセから想像する以上のことしか出来ないけど、今回はヤンの記憶が記録として残っている。実際にどんな人達に囲まれて生涯を送ってきたのか、より鮮明にヤンの過去を知ることになる。彼の過ごした一生は素晴らしいものだと思うけど、どこかタブーを見ているような気がしていた。なんというか走馬灯のローデータを覗いてしまったというか。

 

モノの目線を見ていることを自分ごとにしたとき、ふわりと小さな恐怖が舞い降りてきた。他人の目線は気にするけども、モノの目線など気にしたことがなかった。たとえば自分が持っているスマートフォンが"見ていた記憶"が記録として取り出すことが出来た場合、そこに映る私の顔はどんなに間抜けなのだろう。突然Wi-Fiが入ってキレている顔、無感情で作業ゲームをやっている顔、Twitterで面白いことをつぶやくぞ〜ってニヤニヤしている顔。ああ見たくない。AIだって私の行動を見ているんだ。これからはAIにも優しさあふれるヒトでありたい。