朝、仕事への出発前に鏡に向かってシェーバーでヒゲを剃る。寝ぼけながらも違和感に気づく。アゴのところに1本だけ剃れないヒゲがある。シェーバーの穴に意識して入れようとしたんだけど全く剃れない。これは点ではなく面で剃らなくてはと、わざわざ洗面所の収納の奥から新品のカミソリの封を開けて剃ってみるが、全く剃れていない。雑草のように伸びる1本のヒゲ。そのヒゲの前後を何往復もしているのだけど、事態は改善しない。え、もしかしてトリックアートなの?結局、外出時はマスクするから目立たないと思いあきらめた。顔の肌が弱いのでアゴがボロボロになった。剃り負けというか連敗もいいところだ。がんばったで賞みたいに乳液を塗ってごまかす。
夜、仕事が終わって帰宅する。駅から家までの途中にコンビニがあるんだけど、その入り口近くにポツンと人が座っていた。そのコンビニに近づくと、その人は若い女性だった。入り口の段差に一人たたずむ、その若い女性はショートカットでダボッとした服を着ている。ヘッドホンを装着して、スマホで何かの動画を見ているようだ。スマホの光が、その若い女性の顔が照らしていた。線香花火の終わりをじっと待つような光加減で照らされたその顔に、ふいにドキドキする。
座る女性を見て、あるコントを思い出す。笑う犬の生活でやっていた「トシとサチ」というコントだ。夜の梅屋敷のとある自動販売機の前で若者がだべるというコントで、このサチを思い出した。となると、私に与えられたポジションはトシとなる。トシはロン毛の青年で、サチにぞっこん。でもサチは、トシの先輩の本宮さんのことが気になっている。本宮さんは電話に出るとき「誰だ!」と強く聞く。
自分はロン毛ではないけど、ロクにトリートメントもしていないイマジナリーロン毛をかきあげながらサチの前をゆっくり通り過ぎてコンビニに入る。特にコンビニで買うものはなかったけど、気持ちを落ち着かせたかった。お菓子コーナーで新商品を見たり、アイスの季節限定フレーバーを見つけて夏を再確認したり、ゆっくりと店内を1周して店を出ると、もうそのサチはいなかった。家に帰って、シャワーを浴びる。浴室を出て髪を乾かしながら(このときにイマジナリーロン毛のことは忘れている)、鏡を見ると、朝、気になっていた1本のヒゲがなくなっていた。本当に錯覚だったのだろうか。お風呂上がりの乳液はしっかり塗った。
ちなみにコントの中のサチはパンが好きだった。一個でもパンを買っていれば、コンビニを出ても、彼女はずっと座っていたままだったのだろうか。サチを見かけてから1週間経つけど、何度コンビニの前を通り過ぎても、あの夏の夜のきらめきには遭遇していない。なんとなくあの女性が蜃気楼だったらいいのにと思った。