砂ビルジャックレコード

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モラトリアムとコンドーム(『あの日々の話』観たマン)

『あの日々の話』を観た。


映画『あの日々の話』予告編

 

コンドームというものを初めて目にしたのは、中学生の時だったと思う。「やんちゃ」に分類されるクラスメイトが教室に持ってきて、休み時間にそれを膨らませてデコピンでパチンパチン弾いている。当時の私は、この状況についてよくわかっていなかったけど、無茶をしているっぽい空気感に笑ってしまった記憶がかすかに残っている。

大学生になって、コンドームも使いこなせるようになった私は、ついに、カード状になってるだけで笑えるようになった。講義中の大教室で突然友達がコンドームを配りだす。あれ、なんで面白いんだろうな。きっと、「ふたりのために使うはずのコンドームを、あからさまに不特定多数の状況で見せびらかす勇気を称えるための笑い」なんだったのかな。学校という環境も影響しているのかも。兎にも角にもなぜか男は公共の場で友達が取り出す突然のコンドームに弱い気がする。

 

鑑賞した『あの日々の話』もコンドームを突然見せびらかして爆笑するというくだりが描かれていた。よかった。世の男子大学生は、コンドームで笑うのだ。万が一、イロモネアに出場するとなったら内ポケットに忍ばせとこう。0.02でステージクリアだ。『あの日々の話』は、同名の演劇をもとにした映画で、ある大学サークルのカラオケオールをする一夜が描かれている。さっきのコンドームのくだりもそうだが、深夜のカラオケボックスのリアリティに少し恥ずかしくなる。

 

例えば、冒頭で「おもろい」を連呼する大学生たち。登場人物の中で、関西出身と思われるのはひとりだけ。もう、それは「おもろい」を使っている俺たちが「おもろい」と錯覚しているだけであって、外(=観客)から見れば面白くない。密室に集う大学生ならではの面白くなさが痛々しい。だけども、その状況に遭遇したことがあるから理解できるし、有り余ったエネルギーが上手に空回りしている場面が微笑ましくも思える。所詮はある大学のあるサークルという小さい社会での話。でも当人からすれば、それが彼らの住んでいる世界なのだ。どこかカラオケボックスが社会から避難することを許されるシェルターのように見えてきた。

 

密室劇ということもあり、会話の展開もめまぐるしい。さっきまで先輩・後輩のきっちりした縦関係だったのに、ある話がきっかけで一気に立場が変わったりする。クライマックスではある事件が勃発して、登場人物同士で言い合いになるのだが、カラオケボックスの窮屈感とオールの疲労感で少し精神が崩壊している感じが辛面白い。ときおり聞こえる他の部屋の歌声が救いで、ラストオーダーのコールが朝の訪れを知らせる瞬間の虚無感にホッとさせられる。

 

個人的には社会人を経て大学生になった、小川というおじさんがツボだった。大人のポジションでなんとか馴染もうとするが、痛感されるジェネレーションギャップ。多分、小川さんの言葉で言えば、この瞬間は「オール」でなく「徹夜」なんだろうな。そして物語の中で明らかになる衝撃の事実を示唆するどこか物悲しい背中。社会を経験したことのある人物が、モラトリアムを許されるシェルターにいるだけで、大学生たちの可笑しみがグッと深くなる。すでに大学生を卒業した人たちには小川さんの目線が一番近かった人もいたのかもしれない。

 

鑑賞後、来場者プレゼントとしてコンドームをひとつもらった。この映画で重要なアイテムとなるコンドームを配るという、粋なはからいにニヤッとする。なんだ、まだ俺、公共の場でのコンドームに弱いじゃん。電車で絶対に落とさないようにとカバンの奥に確実にしまい込んで帰途についた。