『ミスター・ガラス』を観た。
ヒーローの定義は難しい。例えば、100mを9秒58で走ったウサイン・ボルトはヒーローである。ヒーローであることに間違いないのだが、オーストラリアでサッカーをしていたウサイン・ボルトはヒーローだったのか?と考えるとすんなり受け入れられない。
燃え盛る民家の中から逃げ遅れた子供を救出した近所のムキムキお兄さんもヒーローだ。ヒーローだけど、若い頃に結構エグいやんちゃをしたという話を知ってしまったら、私なら、かすかに心が揺らいでしまう。
ヒーローについて悩んでいるのも『ミスター・ガラス』を観たからだ。『アンブレイカブル』『スプリット』に続く3部作の最終章。Twitterでの評価で思わず気になってしまい、鑑賞前に未見だった前2作を一気見して映画館へと向かった。
題にもなっている『ミスター・ガラス』ことイライジャ・プライスは、非凡な頭脳と生まれつき骨折しやすいという特異な体の持ち主。その弱い体のため、外出もし辛い彼はやがてヒーローコミックにのめり込み、ある仮説を打ち立てる。私みたいに非常に体の弱い人間がいるならば、対極の人間(=どんな衝撃にも打ち勝てる強靭な体を持つ人間)もいるはずだと。そして、イライジャが見つけた対極の人間こそがデヴィッド・ダン(=アンブレイカブル)であったわけだ。ちなみに実写版のミス・ガラスは坂口杏里だと思っていますので、どこかに坂口アンブレイカブルがいるはずです。イライジャみたいにホストクラブを爆発させたら出てくるはずです。
『スプリット』は23+ビーストの多重人格を持つ男、ケビンのワンマン(といっていいのか)ショー的なスリラーな話。この多重人格をあっという間に切り替えてしまうジェームズ・マカヴォイの演技力に感動しつつ、ビーストが登場するまでの展開にドキドキしてしまう。
この、凡人とは異なる能力を持つ、イライジャ、デヴィッド、ケビンがある精神病院にまとめて収容されることから物語が始まるのだけども、精神科医のステイプルが、まあ科学人間。この超人的な能力は偽物であり、ただの疾患であると主張する。この「科学vs超能力」がひとつの対立構図になるのだけども、そう簡単な展開でシャマランが終わるわけあるか!!意外な展開に観客は狼狽えながらも、何か未到の地についたような感覚を味わう。その立役者こそが題にもなった『ミスター・ガラス』であった。そりゃ題になるわけだって。
『アンブレイカブル』で、イライジャはデヴィッドをヒーローとして見出したけども、その手段は完全なる悪であった。ヴィランがヒーローを生み出すという構図は意外とすんなり受け入れられる。だって日本のヒーローの代表作、仮面ライダーだってショッカーの改造人間であったわけで、ヒーローが生まれる背景には何らかの悪が必須条件なのである。じゃあ、この結末を見てイライジャが極悪非道かと言われたら、うーむとなってしまう。あ、火事を救ったヤンキーの例。
我々第三者が、ある対立構造のどちらかに重心をあずけたとき、片一方がヒーローとなり、ある一方がヴィランとなる。客観的に見たヒーローなどは存在せず、どこか我々の主観や思いを乗せた人やものをヒーローと見ているだけである。ヒーローの評価は立場や時代によってあっけなく変わってしまう。そんな考えにたどり着いたとき、ヒーローという存在が案外ガラスのように脆いものだと気づいた。