『クレイジー・リッチ』を観た。
金持ちになりたい。湯水のようにお金を使っても怒られない存在でありたい。要らなくなったものはしっかりリサイクルするから、その分気の済むまで物欲を満たしたい。すごい大きいプールを独り占めしたい。あ、でもじいやはそばに居てほしい。すぐお水をくれるじいやがほしい。じいやは元ホテルのシェフで彼の作るオムライスがこどもの頃からの大好物という人生でありたい。そういう記憶を植え付けたい。金の力で。あと、コンビニで諭吉を消費したい。
金持ちでない者からして、金持ちになったら、、というifは想像力が試される質問だ。金持ちでない者の想像はたやすく負けてしまう。なぜなら本当の再現のない金持ちができることは「それ、金で買えんの?」というものを金で買ってしまう、満たしてしまう。そもそものものさしの当て方が異なるのだ。という気づきを『クレイジー・リッチ』の冒頭はガツンと教えてくれる。
シンガポールの大富豪ヤン家の御曹司ニックを彼氏に持つレイチェル(アラサー大学教授)がこの作品の主人公である。主人公と書いてシンデレラとでも読もうか。家族に紹介したいというニックの誘いを受けてシンガポールに行くのだが、そこでレイチェルが目にしたのはセレブの世界。ヤン一族の豪華さ。ニックをめぐる女の醜さ、そしてラスボス・ニックのお母様、バチェラーの彼女となったレイチェルに様々な試練が襲いかかる。
そう、度肝を抜いたお金の使い方をしはる。関西弁の敬語も使いたくなるぐらいに遠い存在だ。えげつない船上パーティー、女性心をこれでもかと掴む島でのパーティー、え、何坪なん?と聞くのすら憚れる大会場でのパーティー、そして社交社交社交。ここまでぶっとんでいるとむしろ清々しい。比べることなどナンセンスなのだ。
とはいっても、金持ちと僕らの共通点はある。それは人間であるということ。恋に嫉妬に友情にもう大変。vsニックを狙う女たち vsお母様のストーリーラインもアツい。特にお母様との戦いが見ものだ。私は恋人の父親に挨拶をするという経験がないが、恋人の同性の親との間に流れる妙な空気の冷たさ、美味しくなさが存在することは知っている。お金があろうがなかろうが、本質的なところは変わらないところにホッとする。
そんな愛憎の中を生き抜くレイチェルのたくましさが愛おしい。バトル漫画ではないがこういうシンデレラ・ストーリーにも「覚醒」を示唆するシーンが存在する。レイチェルの才能が一気に目覚めたときの華やかっさたらもう。 2000円程度払ってこの映画を観た小市民のわたしたちは黙ってポップコーンを頬張りながらその覚醒にニヤニヤせざるをえないのである。