砂ビルジャックレコード

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Do more punk to me(『パーティーで女の子に話しかけるには』観たマン)

『パーティーで女の子に話しかけるには』を観た。 

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パーティーで女の子に話しかけるには、勇気とタイミングが重要だ。女の子に話しかけるに適した環境(連れがトイレに行った、なんだか寂しそうに見える、偶然目があった...)が訪れるのを待って、もう一人の自分で、本当の自分の背中を後押しする。「やあ」それでやっとスタートラインに立てるのだ。

 

しかし、そもそもパーティーに行くこと自体がハードルが高くないだろうか。友達に主催者はいないし、開催情報も入ってこない。私がパーティーを知るのは事後報告のときだ。楽しそうな写真を観ながら冷凍食品を食べている。もし、パーティーに誘われたとしても私は怖じ気づく。スタートラインどころか競技場にも入れないわけで、金メダルなんて程遠い。せめてこんな私にもスタートラインに立つ勇気がほしい。なかば自己啓発的な理由で『パーティーで女の子に話しかけるには』を観たのです。

 

主人公のエンは、いとも容易くパーティーに潜入し、そこで見つけた女の子にあっという間に話しかける。私が乗り越えられない壁を(パンクの力かわからないが、)あっという間に壊していく。ひ弱そうなエンにすぐに憧れのまなざし。エル・ファニング演じるザンは、非地球人っぷりが似合っている。"Do more punk to me"という言葉が美しい。異星人に言ってほしい英語第1位だ。

 

本作の監督をつとめたのはジョン・キャメロン・ミッチェル。『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』に通じる熱量と色彩の美しさにウズウズする。予習がてら本作を観ておくのは大正解だ。『ヘドウィグ…』が、性の超越という見方をするなら本作は、種の超越といったところか。何者かによって(はたまた無意識に僕らがそうしたのかもしれないが、)線が引かれているものを壊していくパワーは清々しい。そのパワーの源が『ヘドウィグ…』でも『パーティーで…』でも音楽なのだ。エンとザンのライブシーンは本作のひとつのクライマックスである。

 

このふたりを急接近させた"Punk"とは、と考えると難しい。ただ"Individuality"を重んじるくせに、何か身動きが取りづらいコロニーに所属するザンには少なからず"Punk"を良いものだとわかる感性が備わっていた。"Punk"でつながったエンとザンは無骨に愛を伝えあう。先天的な不満を開放し、自由を求めるふたりのシーンを観ているだけで感情がマイクロ波を浴びたように突き動かされる。異なる愛の表現方法も微笑ましい。

 

こんな恋愛をしてみたいのか、してみたくないのか私にはわからない。だが、少なくともシド・アンド・ナンシーがまだ生きていた1977年においては宝石のようなボーイ・ミーツ・ガールだ。パーティーで女の子に話しかけるには、もとい、パーティーに行くにはパンクと勇気が必須アイテム。