『ギフテッド』を観た。
誰だって、もしかしたら自分は天才かもしれないと思うとき瞬間がある。難しい漢字の読み方を答えられたとき、サッカーでこぼれ球に反応してゴールを決めたとき、初めて作ったホットケーキが上手く焼けたとき。この世界で私は恵まれたものを授かったと解釈をする。しかし、やがて自分は天才でないことに気づく。自分の見ていた世界が狭かっただけで、そんなことは普通だったのだ。あるいは、限界を知ってしまったときなのかもしれない。その失望が生まれると同時に、託すという選択肢が生まれる。
『ギフテッド』は“託す”人間たちの物語だ。天才少女メアリーをめぐって、普通生活を歩ませたい叔父のフランクと、メアリーを選ばれた者として託そうとする祖母のイブリンが物語の核となる。監督は、『(500)日のサマー』のマーク・ウェブ。そういえば、IKEAデートまだできていないなあ。リンゴンベリージャムつきのミートボールを朝食にする準備は万端なのに。
作中では、“可能性を秘めている子供のため”に、大人たちは争う。ズバズバと数学問題を解くギフテッドなメアリーも、大人たちに翻弄されてしまう。抜けた歯から感情が漏れているようだ。また、フランクとメアリーが飼っている隻眼の猫・フレッドも良い味を出している。今年のベストオブ猫映画ではないだろうか(ちなみに去年はFAKEだ)
託す立場として、色々なスタンスを提示されるこの映画こそ、デートで見に行く映画として適切ではないだろうか。もしも、子供が生まれたらどういう教育方針ですすめていくのか、今のうちにディスカッションしておくのがスマートだ。とくに20代中盤〜後半にかけてのお前らだ。大学時代から付き合って早5年、そろそろゼクシィのインクが恋しくなるときに、『ギフテッド』で綿密な確認を。きっとそんなお前らはこんなブログ読んでないでイルミネーションで写真撮ってるんだろうな!
ちなみに私は、とっくに自分のことを天才ではないと感じつつも、でも、でも、どこかに隠された才能があるのではないかと信じてやまない。それが見つかってないだけだ。探索作業が難航しているだけだ。信じる才能は普通より少し秀でているのかもしれない。