砂ビルジャックレコード

カルチャーの住民になりたい

海芝ドラ

岸本佐知子さんの「死ぬまでに行きたい海」を読んだ。この本は、翻訳家でもある筆者が、記憶の中にある様々な地での思い出を綴ったエッセイ集だ。海外旅行の思い出から「地表上のどこか一点」という名もなき場所までが題となっている。

 

その一編に「海芝浦」という場所について書かれている。海芝浦は、JR鶴見線にある無人駅で、改札から外が東芝の私有地であるため、一般の乗客は降りることの出来ない特殊な駅だ。ただ、この駅のプラットホームは海に面していて、横浜ベイブリッジも眺められる隠れたビュースポットとして人気なのである。私は神奈川県出身のくせに、こんな近いところにある世界の果てのような場所を知らなかったことを悔やんだ。「海芝浦」で画像検索すると、なんともドラマチックで美しいマジックアワーの画像が並ぶ。

 

海芝浦への行き方について調べてみると、こんな記事を発見した。

article.yahoo.co.jp

 

どうやら2020年はJR鶴見線開通90周年の記念イヤーで、期間限定で海芝浦駅で銅鑼が叩けたらしいのだ。船が出航するときに銅鑼を鳴らして告げることもあるらしい。え、銅鑼?銅鑼叩けたの?もし2020年中にこの情報を知っていたなら、大海原に向かって爆音を響かせることができたの?ますます後悔の感情が強くなる。海芝浦も行きたいけど、まずは銅鑼をバイーンと叩きたい。いとも簡単に私の欲望の順位は変動する。

 

考えてみれば、ほとんどの人類は銅鑼を叩くことなく、生涯を終える。パーカッション担当か出航で銅鑼を鳴らす船員、はじめしゃちょーの備品を扱う倉庫番などの専門職に就かないかぎり、そのような機会も巡ってこない。マイ銅鑼を買ったとしても、あの爆音を鳴らせる環境がない。

 

目線を変えてみよう。お金を払って思い切って銅鑼を叩けるサービスがあるお店を探そう。例えば、中華料理屋さんとか?思い立ったが吉日。Googleで「銅鑼 叩ける 中華料理屋」で検索してみるが、単純に中華料理屋が出てくるだけで、「含まれない」キーワードとして「銅鑼 叩ける」に取り消し線が引かれていくことに悲しくなる。

 

この世界には銅鑼を叩けるサービスが存在しないことに気づき絶望する。もしかしたら、去年の海芝浦が人生で銅鑼を叩ける最初で最後のチャンスだったのかもしれない。自分の叩く音色でお城の扉が空いたり、対決方式の料理番組でシェフたちが作業をはじめたり、そんなことを思い描いていたのに。気軽に銅鑼を叩けるスポットをご存じの方がいたら、情報をお待ちしております。ドラ待ちです。ドラ単騎待ちです。

 

逆・精神と時の部屋(『ビバリウム』観たマン)

ビバリウム』を見た。


www.youtube.com

 

決めつけられるのが嫌だ。例えば、あれは大学生の時のこと。自分の見た目が若々しい男だからという理由で、定食のご飯が大盛りになっていた。その「若い男=めちゃくちゃ食べる」という都市伝説カテゴリーに所属してもいい己の統計を無意識で押し付けてくるのに嫌気が差した。私は、ちょうど1人前がいいのに。1人前で次の食事まで過ごせる体なのに。悪意がないのは知っているから、文句を言うことができず、最後はすでに苦しい胃袋に無理やり詰め込んで完食した。抗いにくい決めつけを受けたら、Tポイントが貯まるとか、優先的に青信号に変わるとか、そういうことにならないでしょうか?

 

ビバリウム』という映画には、決めつけられた価値観が存在する。新居を探すカップルのトムとジェマは、ある不動産屋を訪れる。不動産屋のスタッフによればYonderという区画にあるその物件はすぐに内見をできるとのこと。早速、内見しにYonderの物件に行ってみると、いつの間にか、案内をしてくれたスタッフは消え、街へ戻ろうとしても、同じ家にたどり着いてしまう。完全に路頭に迷った2人の前に現れたのは、段ボールの中に入った赤ちゃんだった。

 

家族3人でマイホーム生活。字面だけ見れば幸せなイメージなんだけど、この条件を満たしているはずの『ビバリウム』の世界を通してみれば、それは、決めつけられた価値観であって、トムとジェマにとってみれば端的に言って無間地獄だ。望まない子供、望まないマイホーム、望まない食料、望まない父親と母親の役割、望まない青空。これがすべて揃っていて逃げられないんだからトムとジェマはだんだんとおかしくなっていく。段ボールに入っていた子供も一癖ありで、観客までも頭がおかしくなりそうになる。およそ100分ぐらいの映画なのに、体感時間がとても長く感じる。

 

自分は、かつて不動産展示場の道案内の看板を持つバイトをしたことがある。駅前に立って「〇〇展示場はこちら、徒歩○分」と書いてあるの大きい看板を、朝から晩までただ持っているだけのバイトだ。これが非常につらいのだ。一応、仕事中だし、不動産展示場側の人間になるわけだから、露骨に携帯をいじることも許されず、雨が降ってきても屋内に逃げることも出来ない。普段は短いと思っている1日が、なんとも退屈で、ただただ太陽が沈むのを1秒でも早く祈るだけだった記憶がある。それ以来の体感時間の長さだった。『ビバリウム』を観ているときの映画館は、逆・精神と時の部屋だ。

 

修行を終えた後の私は、傷が癒えぬまま映画館から出ながら、前時代的な価値観は捨ててしまおうと誓った。

 

 

煙浴

「煙浴」という言葉を初めて知った。文字通り煙を浴びるという言葉だが、これはカラスなどの鳥類に見られる虫除けを目的とした行動のことで、例えば銭湯の煙突の上に群がっているカラスがいたとしたら、それは煙浴の最中らしい。といっても、最近は銭湯自体を見かけないものだから、この伝聞のあるあるは、かなり珍しいものになったのではないかと推測する。

 

なんとなく、このカラスの「煙浴」という行動に、親近感を覚えるのは私だけだろうか。自分自身は非喫煙者なのだが、友人や恋人がタバコを吸っている姿が好きだったりする。例えば居酒屋で、喫煙スペースで、好きな人達の煙に燻されながら、緩んだ会話している瞬間が幸せなのだ。(不思議なもので、全く赤の他人の煙には、嫌悪感を示してしまう)

 

この嗜好について、きっと前世は鮭か何かで、おしゃれに桜のチップでスモークサーモンにされた名残だと分析してたんだけど、撤回する。どうやら私の前世はカラスのようだ。この燻されたい衝動の正体は煙浴だったのだ。残念ながら現世では人間なので、銭湯の煙突から流れる煙まで浴びるスキルは失ってしまったが、代わりにとても心地の良い煙にまみれることができた。

 

ただ、煙浴はときに寂しい。特に大人数での飲み会から帰宅した後だ。無臭の我が部屋に、さっきまでのタバコのにおいが充満しだす。多数と孤独、喧騒と無音、さっきまでの世界と真反対の空間に来たような錯覚で、お酒の力も手伝ってか、ぐっと泣きたくなる。タバコのにおいがついた衣服を脱いで、すぐに風呂に入る。少し酔いが冷めた風呂上がりに、セミの抜け殻を愛でるように、さっきまで着ていた衣服の残り香を嗅ぐ。楽しい時間を過ごした過去の私に思いを馳せながら、翌朝に目覚めたら、ちゃんと消臭スプレーかけなきゃなと誓って眠りにつく。

 

最近は、こういうご時世もあって煙浴をしていない日々が続いている。空をさまようカラスをみかけると、少なくなった銭湯の煙突を探しているのか、気がかりになる。