砂ビルジャックレコード

カルチャーの住民になりたい

香水に乗じた思いつきを垂れ流す

私がYouTuberだったらやってみたい企画を思いついたけども、私はYouTuberはないのでラフをここに書いてみる。偶然ここを通りがかったYouTuberが、このアイデアを実現してくれることを願っている。

 

タイトル:香水チャレンジ

企画概要:瑛人の「香水」のMVをパロった変形の「箱の中身はなんだろな」クイズ

企画内容:チャレンジャーは少しだけ足の高いカウンターチェアーに座り、音楽に合わせて瑛人の「香水」を歌う。チャレンジャーの背後にはダンサーがいる。チャレンジャーは、歌いながら、ダンサーが何をしているのか、その環境音や気で当てるというものだ。例えば啜る音が聞こえたら、ラーメンを食べてるかもしれないし、紙がカサカサするような音が聞こえたら、紙飛行機を折っているのかもしれない。感覚を研ぎ澄ましながら、推理をする。

シンキングタイムは1番のサビが終わるまで。サビのドルガバのくだりを「君が後ろでやっているのは○○〇〇だよ〜♪」と替え歌をして回答を発表する。正解なら1ポイント。ハズレた場合は、その隙だらけの首に向かって、ダンサーからのモンゴリアンチョップ

 

 

白鳥は哀しからずや(『ミッドナイトスワン』観たマン)

『ミッドナイトスワン』を観た。

 


9月25日公開『ミッドナイトスワン』100秒予告

 

 

白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ 

                         ー若山牧水

 

『ミッドナイトスワン』の終盤のあるシークエンスで、この短歌が頭に浮かんだ。世界を当たり前のように占める青色が現代社会ならば、目立つほど浮いている白鳥は、本作の凪沙と一果のようなマイノリティなのかもしれない。

 

主人公である凪沙は、身体は男性で心は女性のトランスジェンダー。田舎にはそのことは内緒にしていて、都会でショーパブのダンサーとして生活している。そんな凪沙のもとに、ある女の子がやってくる。凪沙の従兄弟の子供である一果は、虐待に遭っており、見かねた親戚が、東京にいる凪沙を頼ったのだ。凪沙と一果は、時にはぶつかり合いながら、時には社会の不条理に怒りながら不思議な共同生活を送っていく。ちぐはぐした2人をつなげるものは、凪沙がショーパブで使っていたバレエの衣装だった。一果がバレエに興味を持つことをきっかけに物語が大きく動き出す。

 

トランスジェンダーである凪沙を演じる草彅剛の憑依っぷりに、圧倒される。ただ、化粧をしたり、ドレスを着たり、ヒールを履いたり、外見の部分だけでない、女性性と母性が凪沙から溢れまくっているのだ。『ミッドナイトスワン』をすでに観た方なら、凪沙から「内なる母性」を感じる、ある決定的なシーンが強烈に記憶に残っているはずだ。

 

YouTubeで映画の感想動画を見ることがあるが、この映画を観たトランスジェンダーのYouTuberが、自分の経験を通じながら、凪沙の完成度の高さや、あるあるっぷりに驚きながら喋っている動画を見ると、客観的にも凪沙が立体的な人物として浮き上がってくる。フィクションと現実の境目がつながってきて、凪沙が、一果が、自分の住んでいる世界の延長線上にいる気がしてならない。

 

そして、もうひとりの主人公である一果を演じる服部樹咲の表現力も素晴らしい。虐待によって自分を抑圧してしまっている少女から、バレエを踊る喜びを知りはじめる少女への成長は、令和のシンデレラ・ストーリーだし、その成長のグラデーションに、私達の心も自然と暖かくなる。

 

凪沙と一果の日々の暮らしの中で私が好きなのは、夜の公園でバレエの練習をする一果に、「踊りを教えてほしい」凪沙が言って、2人でバレエの動作をして心を通わせ合うシーンだ。日常では、社会的マイノリティを強いられる2人が青色の無い夜の世界で、平穏を取り戻す姿はまるで「白鳥の湖」のような展開だ。「白鳥の湖」と結びつくと、題字の黄色が月光のようにきらめき出す。白鳥として目立つ昼の状態より彼女らを輝かせる、誰にでも等しい夜のことも好きになる。

  

この映画を見たあとに、若山牧水の短歌にちょっとした違和感が生まれた。白鳥が哀しいか決めるのは俯瞰している私達ではなく、白鳥の彼らだ、彼女らだ。青に馴染まなくても、白鳥には自由に舞う権利があるし、はためく翼には力強さがある。昼でも夜でも白鳥が幸せに舞っているのならば、私はそれでいい。

 

冷めない熱はテープの中に(『mid90s』観たマン)

『mid90s』を観た。

 

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思えば遠くへ来たもんだ。時代はあっという間に2020年。90年代生まれの私は世紀を越え、年号を越えてしまった。ノストラダムスガラケーもVHSもガングロギャルも過去には通り過ぎていって、人々はコロナにてんてこまいしている。そんな2020年に、とうとう自分の生きていた(ほとんど記憶ないけど)時代を懐かしがる映画が出てきた。タイトルは『mid90s』。名前の通り90年代なかばのロサンゼルスでの物語だ。

 

主人公は13歳のスティービー。母と兄の3人ぐらしの彼は、あるときスケートボードショップを見つける。ショップで屯するレイやファックシットという青年たちが作り上げるそのコミュニティのかっこよさに魅了され、スティービーは徐々に入り浸り始める。そのコミュニティを通じてスティービーが青年としての色々な経験を積む甘酸っぱい話だ。 

 

主役となるスティービーやレイ、ファックシットといったコミュニティの面々は実際のボーダーということもあって、その姿がめちゃくちゃかっこいい。上手いから下手なこともできるんだよな。ちゃんとスケートボードのシーンが決まっているからこそ、対比としてそれぞれの人間関係に苦悩している彼らの横顔が愛おしくなる。大人たちが作り上げる社会を忘れてスケートボードを通じて、ひたすらに人生に没頭する少年たちは美しい。

 

とくにスティービーのボードをリーダー格のレイが仕立てるシーンがあるのだけど、この映画で最も息を呑む場面だ。道具を扱う職人的な目線もグッと来るし、先代の勇者から伝説の剣を託されるような瞬間でもあり、声にならないように「うおおおおっ」と叫びたくなる。兄弟ぐらいの年の差で、何かが継承されていく素晴らしさ。青春。青春してるねスティービー。

 

90年代はハンディカムが普及して「記録」の時代となった。物語でもコミュニティのフォースグレードがカメラマンとして、彼らのパフォーマンスを撮影している。この記録の映像が、劇中のクライマックスで流れるのだけど、これがまた、揺さぶってくる。きっと、当時の出来たての映像作品としての感動とは違う、2020年から見た90年代の質感に感動してしまう。記録技術含め、現代のテクノロジーや流行に適応した自分に半分と、過去から帰ることのできない自分の半分とが不思議と混ざり合っていく。スティービーをはじめ90年代を一所懸命に滑走していった少年たちの熱にいつまでも触れていたくなる。