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母なる金切り声『mother マザー』観たマン

『MOTHER マザー』を観た。

 


長澤まさみ主演映画『MOTHER マザー』予告映像解禁、夏帆らも出演

 

自分はマンションに住んでいる。朝、支度をしていると、たまに女性の声と思われる怒声が静かな朝を貫くように聞こえてくる。どの部屋から発せられているかわからないし、部屋を隔てているから音量自体は小さいのだが、その声に思わずビクッとする。小学生のときに眠気に負けそうになる自分に、母親が早く登校しろと怒声をあげるときのことを思い出して、ドキッとする。その謎の怒声をあげる女性はどういう理由で怒っているかわからないけど、結果的に大人になっても朝の弱い私にとって最高のアラームになっている。

 

とにかく社会における母親という立場の人間は大変である。少なくとも母親に対して迷惑をかけた自負のある私はそう感じるし、自分の周りにいる母親を見ても、責任感の強い生き方をしているなと感じる。ただ、母親の中にも、その努めを果たせない人間がいるわけで、、それが『mother マザー』における秋子(演:長澤まさみ)である。

 

シングルマザーである秋子は、とにかく自由奔放な性格。働きに出ることもなく、親族にお金を頼るし、気に入った男を見つければすぐにベッドの中へ誘う。と、思えば息子である周平を半ば駒扱い。学校にも行かせず、買い出しも金乞いも周平にさせる。このような人間をたったカタカナ2文字で表現できるのだから日本語とは素晴らしい言語である。

 

物語は、秋子と周平の「底辺ロードムービー」といえばわかりやすいか。破滅的な秋子は、男を宿のようにして転々と暮らしていく。秋子を演じる(俺たちの)長澤まさみの妖艶さを見てしまえば、そんなことを容易にしてしまう理由付けになっている。魔性の女とはよく言ったもので、後々「魔」の中に「鬼」の字が入っていることに気づき、ぞわっとした。作中の長澤まさみは基本的に声を荒げっぱなし。こんな日本を代表する女優でも不快感をおぼえるのだから金切り声って本当に嫌いだ。親子の呪縛、というか鬼の呪縛から逃れることのできない周平に心が痛くなる。

 

秋子と周平のような社会からこぼれてしまいそうな人たちを救う手も登場する。児童相談員の亜矢を演じる夏帆のリアリティが素晴らしい。彼女は、周平に一筋の希望を見せようとする。鬼のような実母と社会的な聖母が対比的な表現になっていて、その狭間で揺れ動く周平が出した答えが、この映画のクライマックスだ。

 

恐ろしいのが、実話をベースにした作品であること。少なくとも作中のような悲劇がこの日本のどこかで行われていたということだ。映画を見終わったあとでも、ひたすら心がズキズキしている。

 

 

 

シアーシャ大好きおじさん2020(『ストーリー・オブ・マイ・ライフ/わたしの若草物語』観たマン)

『ストーリー・オブ・マイ・ライフ/わたしの若草物語』を観た。

 


『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』6月12日(金)全国順次ロードショー

 

お久しぶりです。シアーシャ大好きおじさんです。シアーシャ・ローナンが出ていると聞けば、なるべくどんな映画も観たいと思っているし、シアーシャが選挙に出たいというのなら後援会会長を名乗り出たいし、シアーシャがしっかりした音響施設の部屋がほしいというなら配線まで手伝いたいと思っている。

 

そんなシアーシャの最新作が『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』という作品だ。これは、アメリカ文学の傑作であるオルコットの若草物語がベースになっている作品だ。しかも、監督・脚本が『レディ・バード』と同じグレタ・ガーウィグと来たもんだから、シアーシャ大好きおじさんにとっては勝ち確なのである。ありがてえ。

 

takano.hateblo.jp

 

4姉妹のシアーシャ以外の登場人物も豪華で、エマ・ワトソンに、『ミッドサマー』のフローレンス・ピュー、エリザ・スカンレン、4姉妹の家のご近所の金持ち息子にティモシー・シャラメと、お祭りみたいなもん。全く洋画に興味のない人に素っ気なく言うならイギリス版の『海街diary』みたいなことでいいと思う。それだけのメンツなのだ。

 

物語は、主に次女であるジョー・マーチ(シアーシャ・ローナン)の目線で描かれ、過去と現在が行き来する複雑な展開で進んでいく。そのシステムを理解するのに時間がかかったが、過去は赤をベースにした映像トーン、現在は青をベースにした映像トーンで表現されていることに気づいてからは、しっかりと話に集中することができた。

 

今でこそ多様な生き方が認められつつあるものの、この当時は「結婚すること=女性にとってのハッピーエンド」が当たり前であった。その常識に疑問を感じて、ただ物書きとしての成功を目指すジョーのひたむきな日々と、その周辺で起こる家族間の様々なエピソードを目の当たりにして、私達はどんなかたちであれ、このマーチ家の幸せを願わずにいられない。私にも別の家族を養うだけのお金持ちであれば、可及的速やかにこのマーチ家を支援するのに。

 

それでも日常は続く(『デッド・ドント・ダイ』観たマン)

『デッド・ドント・ダイ』を観た。


ジム・ジャームッシュのゾンビ映画『デッド・ドント・ダイ』予告編

 

コロナウイルスの影響で、私達が日常と思っていたものは形を変えていき、新たなパワーバランスを示しながら私達のことを包んでいる。それは水のように掴みどころのないものだったが、人間というのは適応力の高い生き物で、その変化を見事に日常として閉じ込めつつある。

 

映画で観たことがあるパンデミックが、現実のものとなれば、次に来るのはあれしかない。そうゾンビである。この人間の素晴らしい適応力をもってすれば、ゾンビが出現してもなんてこともないんじゃないかと思いがちな私の前に、最新のゾンビ映画が姿を表した。『デッド・ドント・ダイ』だ。監督は、、、ジム・ジャームッシュ。え、ジム・ジャームッシュ?『パターソン』とか『ナイト・オン・ザ・プラネット』の?前作では、ある町のバス運転手の日常を描いていたのに、今度はゾンビだなんて。ジャームッシュ的日常にゾンビがかけ合わさったらどうなるのだろう。この妄想で鼓動が高鳴っている時点で私の勝ちだ。

 

takano.hateblo.jp

 

テイストはいたって、基本に忠実なゾンビ映画の世界観。センターヴィルという街を舞台に、あるトラブルの結果として現れたゾンビに対して、警察や市民の人々が巻き込まれていくというお話。そして気になるゾンビは、クラシックスタイル(ゆっくり歩きながら人々を襲う型)だ。ゾンビも多様化する現代において、のろのろと襲ってくるゾンビは愛おしくもある。このゾンビたちに相対する警察官を務めるのがアダム・ドライバービル・マーレイだ。ゾンビをぶった切りそうな方と、吸い込みそうな方で覚えると簡単だ。

 

ただ、作中のゾンビはひとつだけ独特な点がある。それは、生前の記憶に基づいた思考に縛られた行動を取っているということだ。カフェインを求めてダイナーに訪ねてくるゾンビ、Wi-Fiが入る場所を求めてスマホ片手にさまようゾンビ、お菓子をボリボリ食べ始める子供ゾンビなど、死してなお欲張りな彼らたちがおかしいのだけど、100%は笑えない。私もなにかに依存している自覚があるからだ。ちょっと抜けたゾンビ映画のようでありながらも、ふっと我に帰るメッセージを突きつけてくる。

 

私が作中のゾンビになったら、一体どうなるのだろうか。大好きなスパイスを取りにカレー屋さんに行くのか、それとも映画館に行って、ゾンビ映画を見るゾンビになるのだろうか。ソーシャルディスタンスを気にしないゾンビでぎゅうぎゅうの座席は、魂が飛ばせるなら観てみたいものである。みたいな妄想をしていたけど、私は引きこもり体質なので、ゾンビになってもおうちでダラダラしてるんだろうな。うめき声をあげてみたものの、管理会社経由でクレームが来るだけで終わりそうだ。死んでも怒られるってつらいなあ。ゾンビになっても日常は続いていく。