砂ビルジャックレコード

カルチャーの住民になりたい

にんにく餃子

5月はなんだかわからないが(わかっているが)短歌をまとめたくなる月である。まとめたくなる欲が湧いているが、果たしてこのまとめ方でいいのであろうか、もっと美しいまとめ方はないだろうかと、考えている。そのヒントを探すために、私は大好きなほむほむの作品をもう一度読んでいる。連作とは面白いもので、その作品を読むタイミングによってきらきら光りだす短歌が変わってくる。

 

出来立てのにんにく餃子にポラロイドカメラを向けている熱帯夜

[穂村弘/手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)]

 

「手紙魔まみ」自体、とてもクセの強い作品である。きっと短歌を学校教育でしか知らない人が読んだら頭の中のケーブルがぐちゃぐちゃになってしまうような、掟破りな短歌がいくつも並んでいる。最初は私も、その自由奔放っぷりに目を奪われた。そのせいで、上記の作品の旨みを素通りしてしまった。

 

この短歌を改めて自分の中に取り込んだとき、情景として浮かんだのは台湾や香港の若者映画に出てきそうな古びたマンションだった。「恋する惑星」に出てくる重慶大厦をもっと狭くした感じ。設備やセキュリティも満足できるものとはいえない混沌としている大きな建物の1室で、蒸し蒸しした空気の中で作り上げた「にんにく餃子」。小汚いテーブルの上に鮮やかな色の皿を置いて、「出来立てのにんにく餃子」を盛り付ける。

 

そして、「ポラロイドカメラ」である。撮ったポラロイド写真はどうするのだろうか?恋人との楽しいおうちデートをコルクボードに記録するためのもの?遠く離れた友人に手紙とともに送る?空き巣がふと見てしまうために無造作に机に置く?隣りに住んでるヤバイ奴に破ってもらう?今でこそ、出来たての料理を撮るというのは、現代だからこそ、なんとなく理解できる部分があるが、それはあくまでも“シェア”するためだからだ。アナログなデータに落としこむのは何故だろうか。私の中で答えはまだ出ていない。

 

ただ、この行動の意図が“わからない”こそ、きらきら光ったのだ。ごちゃついている生活の中で、理由のわからない行動をする。そのシーンが私の中で実体化したとき、圧倒的な熱と勢いを感じた。有り余る若さを全速力でぶつけられたようだ。と、同時に今の私が省エネルギーで日々を過ごしていることを恥ずかしく思った。日本に住んでいる私にも、ポラロイドカメラをにんにく餃子に向けるチャンスはあったのに。

 

こんな文章を夜中に書いていたら、出来たてのにんにく餃子が食べたくなった。にんにく餃子を食べたら何かを取り戻せるような気がしてきた。ひたすら明日のことを考えず貪りたい。