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『バードマン(あるいは無知がもたらす予期せぬ奇跡)』観たマン

『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』を観た。

 


映画『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』日本版予告編 - YouTube

 

映画についてあんなことこんなこという記事については一貫して「(作品)観たマン」というタイトルで書いている中でのバードマン。バードマン観たマンこと私。

 

『バードマン』の映像の特徴のひとつである切れ目の見えないカメラワークがすごい。楽屋からバックヤードへ、舞台に上がったかと思えば、またもやバックヤードへ。映像の中の対象は変わることはあるけど、舞台裏で起こる人間関係のもつれやトラブルを絶えず目の当たりにする。

 

この映像感覚を見ながら似たような体験を3つ思い出した。ひとつは『ゼロ・グラビティ』の冒頭の長回しである。と、思ったら想像できない宇宙での孤独を体感できる10分間を生み出した男が、この『バードマン』でも撮影監督じゃないか。とんでもないよルベツキさん。(撮影監督の具体的な仕事内容はおいおい勉強するとして)

 

残りの2つはディズニーランドの『イッツ・ア・スモールワールド』とUSJの『スパイダーマン・ザ・ライド』である。途切れないひとつの小世界、ひとつの事件を観客は息つく暇なく体験する。ライド型アトラクションに乗ったような感覚で、『バードマン』内のドラマにずるずると引き込まれていく。

 

個人的に面白かったのが、自分の映画鑑賞における脳内整理の方法がカットが変わることで行われていたことである。従来の構造の映画の見方が知らず知らずに形成されていたという発見。長回しが延々続くと、なんだか展開についていけず疲弊していたが、ただ、その長回しの中でも息継ぎポイントを見つけることに成功した。これからは何時間でも長回ししてこい!

 

しかし、なぜこうも栄光を一度味わった男がかっこ悪く藻掻く映画はこんなにもかっこいいのだろう。主人公であるリーガンはヒーロー映画『バードマン』でスターの地位にいた男だが、そんなことは時が残酷にも洗い流してしまい、過去の男となってしまった。過去の男であることを際立たせるようにインターネットにも全く関心がない。みんな1羽や2羽、そのスマホの中に青い鳥を飼っているというのに、彼は飼っていないし、かつて世界を席巻した鳥の超人もすっかり忘れ去られてしまっているのだ。

 

バードマンと契約したリーガンが、その呪いを必死にふりほどく様はださいし、おかしいんだけど、応援してしまう。特に予告編にもあった。ブリーフで街を歩くところなんか最高にダサい。日本でブリーフで街中練り歩いたらあんなキャーキャー言われる人って誰か考えたら高田純次しかいなかった。(ダチョウ倶楽部出川哲朗は+蝶ネクタイだ。)

 

劇中劇で行われるレイモンド・カーヴァーの『What We Talk About When We Talk About Love』については、もっと予習をしたらもっと濃密に味わえたかもしれない。とはいえ、劇中のセリフが、徐々にリーガンの心の声と重なっていく。そして、リーガンが見せた執念の演出。もう、それがくる!それがくる!とわかっていてもハラハラしてしまっった。丁寧にまいた伏線の回収にニヤニヤしていた。

 

それにしてもリーガンをスターダムにのし上げた『バードマン』とはどんな映画だったんだろう。リーガンを見るだけで、バードマン!と叫ぶ市民の興奮からみるにとてつもない影響を与えたはずだ。過去3部作も見たいし、リブート版は計画されなかったのだろうかとか、『バードマン・ザ・ライド』は新設されないんだろうかとか、空想上のことをさらに空想してみる。