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どぶろっく KOC1本目『農夫と神様』考察

結果だけ見れば、大波乱と言ってもおかしくないのかもしれない。名だたるコント師が集うキングオブコント2019において、頂点に輝いたのは、歌ネタ・下ネタのイメージが強いどぶろっくの2人であった。ミュージカル調で繰り広げられた1本目のコント(ここでは、『農夫と神様』というタイトルとして記す)が、なぜ高得点を叩き出したのか、そして、テレビで放映される賞レースにおいて、下ネタがなぜ受け入れられたのだろうか。内部要因(ネタ)としての観点と、外部要因の観点から考察してみたい。

 

 

 

 

内部要因

美しい起承転結と大胆な構成

まずは、ネタを分析してみよう。『農夫と神様』はキレイなほどに、起承転結で繰り広げられる4分20秒のミュージカルコントであった。

 

 

 

舞台は森の中。不治の病に罹った母を助けるため貧しい農夫(江口)が登場。母を想う気持ちに心打たれた森の神(森)が登場。神は「望みをひとつだけ叶えてやる」と農夫に告げる。

農夫は「大きなイチモツをください」と願いを唱える。神が、何度もチャンスを与えるが農夫の願いは変わらない。

神は農夫に「イチモツは大きさではない」と諭し、大事なのは愛であると説く。神の説得に心動かされる農夫。

しかし、農夫は「大きなイチモツをください」と願いは変わらず。呆れた神様は森へと帰っていく。

 

  

起の部分では、このミュージカルコントの世界観を作るために、歌いながらセリフで状況について説明している。このセリフも一言一句リズムよく練られていて、ストレスを感じないところに、洗練さを感じる。

 

人間性が出やすい漫才と違って、コントでは、登場人物はどういう人間なのか、どういう設定なのか、ということを観客に伝える必要がある。『農夫と神様』で特徴的なのは、状況を説明するまでに、およそ80秒も時間を費やしているところである。4分20秒のこのコントのうち、4分の1をフリに使っている。

 

ちなみに、他の決勝進出者の状況説明(この場合は、舞台が明転してから、最初のボケを言うまでに費やした時間とする)を計測してみたら平均約40秒であった。他の出場者と比べて、2倍近くフリに時間をかけてているのに、なぜ爆発的な笑いが起きたのか、ここには環境が大きく関与していると考えている。(外部要因で後述する)

 

承のパートで、このネタの幹となる「大きなイチモツをください」というフレーズが登場する。キャッチーなメロディと、抜群の歌唱力で、何度もこのキラーフレーズを歌うことによって、観客の脳に刷り込まれていく。「病の母はどうした?」と、本来の目的に正そうとする神様の意志と裏腹に、エゴイズムが何度も爆発する農夫の狂気に翻弄されていく。

 

そして、転へと続く。「大きなイチモツをください」に対して「男よ、イチモツは大きさではない」と、神が説く。承のパートでも、ボケとツッコミの掛け合いはあったが、この転調が入ることによって、承のパート全体に対して、転パート全体を使ってツッコミを行っているという構図に変化する。マクロに見ればこのコントはボケ1回、ツッコミ1回という恐ろしい構成になっている。

 

浅井企画的な包容力

ツッコミのワードとなる「男よ、イチモツは大きさではない」という言葉選びの優しさに胸を打たれる。願いを全面から否定するのではなく、農夫の心情に理解を示した上で、適切な言葉を投げかけている。この神様の言葉に、関根勤飯尾和樹や彼らが所属する浅井企画的な包容力を感じるのは私だけではないはずだ。

 

この転のパートさえ決まれば、あとはキレイに着地するだけである。結パートで、神様の説教の甲斐もむなしく、農夫はエゴを突き通すというオチであった。とっくに刷り込まれた「大きなイチモツをください」のメロディが来るぞ来るぞとわかっていながらも、反射的に笑ってしまっている。実に天丼を駆使した巧みな構成だ。

 

 

『農夫と神様』というコントそのもののすごさは、伝わったかと思うが、それでは、なぜ、下ネタを全面に押し出したコントが、TBSのゴールデンタイムで爆笑をかっさらったのか。次は、ネタではなく、どぶろっくと、彼らを取り巻く環境について考えていこう。

 

 

 

外部要因

どぶろっくとキングオブコントのミスマッチ

外部要因を解明するにあたっては、審査員だったバナナマンのコメントが、まさに答えを言い表している。

バナナマン日村「どぶろっくが準決勝にいるのは知ってたから、(決勝に)出てきたら何をやるんだろうなあと。やはり、「もしかしてだけど」があまりにもイメージがあるから。そしたら、ちゃんとこういう設定があっての歌だし、これだけ面白いし、誰だってそりゃ大きなイチモツが欲しいですよ」

バナナマン設楽「どぶろっくはかっこいいなと思いました。コントに生き様が反映されているというか。ちゃんとアンサーソングみたいな感じで、なんか答え出しちゃった...みたいな。ちゃんとひとつのストーリーになってるからすごいなと。(舞台に)木が立ってるときに感動しましたもん」

 

「もしかしてだけど」が、例に上がったように、従来のどぶろっくのネタのイメージを挙げるとすれば、以下の3つとなる。

①ギターを使った音ネタ

②ばかばかしい単純な下ネタ

③妄想の強い男目線のネタ

 

さらに、キングオブコントで披露するという状況が、以下の先入観を作り上げる。

キングオブコント準決勝を勝ち抜いたネタ

⑤TBSのゴールデンタイムで放映されても問題ないネタ

 

これら5つの先入観を持ったままで、我々は1本目のコントを見ることになるが、まずは、どぶろっくに対する先入観が良い意味で作用する。ネタの冒頭の部分を振り返ろう。

 

 (舞台が明転)

→(森のセットが現れる)

→(間もなく流れるギターの音)

→(ミュージカル調で歌い出す農夫)

 

まず、森のセットが舞台上にあることで、観客は「これはコントである」ということを認識する。と同時に、この時点で①②③に当てはまっていないどぶろっくが、どのようなコントを行うのかという期待値が高まる。

 

次に、ギターの音が流れ出す。もちろん観客は①の先入観を持っているから、困惑することなく、むしろ、「どぶろっくらしいギターを使ったネタである」ということを認識する。

 

観客が心動かされたのはミュージカル調で歌い出した瞬間であろう。驚きとともに「歌+コント=ミュージカル」という、どぶろっく側の戦略を予想しながら見ることになる。

 

見たことのある面とない面を、たった数秒で見せられたことにより、観客は、すでにどぶろっくの作り出す世界に夢中になっている。ハラハラしながら、果たして、一体どんな展開になるのか、観客の期待と集中力は極まっているために、飽きられることなく舞台上の2人は丁寧に80秒もかけて、フリが出来たのではないかと推察する。

 

承のパートで、効いてくるのが②③④⑤の先入観だ。キングオブコントでは、準決勝と決勝は同じネタを披露しなければいけないというルールがある。準決勝で下ネタを駆使したコントで受けたとしても決勝には残れないだろう、ましてや優勝なんて。それを考えてどぶろっくも地上波のゴールデン用に拵えているのだろう、という受け手側の自意識過剰的なコンプラ意識が、結果的に"緊張"として作用する。

 

そんな杞憂をすがすがしくぶち壊す「大きなイチモツをください」の連呼。どぶろっくの違う一面を見れると思っていたのに、結局②③を使ってボケるという"緩和"状態になる。ここの構図を俯瞰的に見れば、ボケ=どぶろっく、ツッコミ=観客となるのではないか。気づかぬうちに、彼らの掌の上で踊らされていた観客は「やっぱり下ネタじゃねえか!」とツッコんでしまったはずだ。

 

現在のどぶろっくから過去のどぶろっくへのアンサーソング

ただ、今までの彼らの展開で終わらなかったのが、キングの勝因となる。転パートでの神様の説得である。歌詞を見ていこう。

 

男よ イチモツは大きさではない

サイズのことを気にしてるのは男だけさ 男だけさ

すべては愛さえあれば 愛さえあれば

心満たされ やさしさ溢れ出す

愛さえあれば 愛さえあれば 愛に勝るものなど

 

"男"目線で妄想ソングや偏見ソングを歌っていたどぶろっくが、"男"に対してアンサーソングを歌っているのである。旧来の男性優位社会から変わりつつある今日において、テレビのコンテンツも、その時代にあった表現が求められる。今まで、どちらかというと旧時代的な笑いで勝負していた過去のどぶろっくに対して、2019年9月21日のどぶろっくは「そうじゃないでしょ」と、コントのストーリーを用いて、ツッコんだのである。愛と信念で、過去に打ち勝とうする姿は、観客が潜在的に求めていたものであったために、拍手笑いが発生したのだ。

 

「大きなイチモツをください」という言葉のインパクトが強すぎて、どうしても「下ネタだから優勝した」との見方をされてしまうが、ネタのクオリティや、どぶろっくの生き様など、複数の要因が絡み合って、達成した快挙であると考える。ということで、考察を終えた私は、不治の病の母を救うために薬を探しに森へ行ってきます。

  

 

ドッペルゲンガーはどこにでもいる(『アス』観たマン)

『アス』を観た。

www.youtube.com

 

自分によく似た人間はこの世にあと2人いて、その人に出会うと死んでしまう。ドッペルゲンガーに関して、こういう都市伝説を聞いたことがある。ならば、私はかなり致死率が高いと思う。幸いにも、自分に似た人には直接出会ったことはないけども、その自信がある。なぜなら、私の顔が誰かに似ていると誰もが例えたがるからだ。バイトの先輩、親戚のお兄ちゃん、部活の顧問の先生、友達のお姉ちゃんの元カレ...数えだしたらきりがない。少なくともこの日本には私とよく似た人が20人はいるはずだ。外出することがリスクだったりする。

 

『アス』はドッペルゲンガー現象をベースにした作品だ。主人公は、黒人の女性・アデレードアデレードは結婚しており、2人の子宝にも恵まれている。(一姫二太郎とは、なんと模範的な幸せ家族であるか)ある日アデレードの家族はバカンスに出かける。その旅先のビーチは、アデレードが子供の頃に家族と行ったことがある地で、そこでトラウマな出来事を体験したことが示唆される。

 

コテージに滞在中の晩に、彼女たちの家族と瓜二つな容姿をした、赤い服で統一された「私たち」が現れる。この「私たち」が、なんとも恐ろしい。不敵な笑みを浮かべて、右手には手袋、懐には植木バサミ。言わなくても伝わってくる殺意。アデレードの家族より秀でた運動能力で彼らを殺そうとする。ほら、外出することはリスクなのだ。

 

果たしてこの真っ赤な「私たち」は何者なのか、そして、なぜアデレードたちを殺そうとするのか、「私たち」の凶行に怯えながらも、観客は頭をぐるぐる回転させて、物語にしがみつこうとする。監督・脚本を手掛けたのは、『ゲット・アウト』のジョーダン・ピール。使用人のお姉さんめっちゃ怖い‥と思っていたら、超展開にむふふっと笑った記憶がある。『アス』は、ただ「瓜二つの人間が殺しに来た」だけのホラーではないということだ。怖い部分もありながらも、垣間見えるコメディパートにぷっと吹き出す。

 

takano.hateblo.jp

 

ゲット・アウト』同様、アメリカの社会へ皮肉を込めたメッセージが何なのかニヤニヤするのが乙な楽しみだ。早速アップされたブログや、YouTubeの考察をチェックしながらうんうん唸っている。そっか、あのシーンにはこういう意味があったのか、と全体像を踏まえた上で、もう一度観たくなる作品だ。ただ、映画館へ行くのがちょっと怖い。チケットのもぎりをしているスタッフが赤い服の「私」だったらどうしよう。隠し持った植木バサミでズサリと殺られはしないだろうか。実は、映画館で働いてそうな顔ともよく言われるのである。どんだけいるんだよ俺のドッペルゲンガー

 

 

ロンドン降臨記2

ロンドン滞在2日目のスタート。朝から行動したい気持ちとは裏腹に、体と心は一致しないようで、だいぶ長い眠りについてしまった。前日の飛行機移動で消耗していたのだろう。結局、11時頃に市街へ繰り出した。

 

最初の目的地は、大英博物館だ。実にイギリス観光らしいことをしている。地下鉄を乗り継いで、最寄りの駅へ向かう。ロンドンの地下鉄の車内はとても狭い。席の両側に人が座っていれば、足がぶつかりそうになり、間を通るにも一苦労だ。うーん、たしかに"Tube"と称したくなる。出来れば見知らぬ追っ手を撒きたくなる。

 

話は反れたが、大英博物館に到着。それにしても、なんという広さだこの博物館は。これだけの人がいるのにも関わらず、窮屈さを感じない。逆Tubeだ。広くても見知らぬ追っ手から逃げたくなる。異国の風景がそうさせるのか?入口近くのロゼッタストーンは一番人気で、ずっと人だかりが出来ていた。おみやげコーナーのロゼッタストーン推しに少し気圧される。

 

この博物館には何点展示されているのだろうか。いわば人類の文化が、エジプトからギリシャから、ほぼ全て詰まった空間だから、数時間でめぐることが間違いであった。端から端まで見るのは無理だと気づき、なにかひとつだけでも心に残ったものを見つけたら帰ろうと徘徊していたところ、北極圏の狩猟民族の暮らしを紹介したコーナーで、透明なパーカーを見つけた。古びたレインコートのようなパーカーは、 セイウチなどの動物の腸で出来ているそうだ。主に綿かポリエステルしか着ていない私にとって、この異民族の生活の中にある美しさに見とれてしまった。機能着としてのパーカーへの愛が高まった。

 

そのあとは、ミュージアムの梯子を敢行だ。教養力高めの観光だ。ケンジントンにあるデザイン・ミュージアムへ向かう。スタンリー・キューブリック展をやっているという情報を手に入れて駆けつけた。全てのキューブリック作品は制覇していないけれど、日本でこの特別展をまだやっていないというのだから、行かない理由はない。(そのために、『2001年宇宙の旅』をあらかじめスマホにダウンロードして、行きの飛行機でチェックしていた)

 

チケットを買って、特別展の中へ。まずは、仕事現場など、彼の映画制作に対するこだわりを知れたり、初期の作品が観覧できるゾーンへ。手書きのメモや台本などから半永久的に出続ける熱意を、煙のように浴びる。

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各作品のポスターが、大小さまざま壁一面に並べられている。こういう空間を作って、そこの維持費を”家賃”と呼ぶような生活に憧れる。

 

彼の人となりを知ったあとは、各映画ごとのブースが続く。各ブースは、それぞれの映画をイメージした色ごとで区切られていて、イッツ・ア・スモールワールドみたいなワクワク感がある。各映画の印象的なシーンに、メイキング映像、そして、目に焼き付いて離れないアイテムの数々が展示されている。興奮したのはシャイニングのゾーンで、真っ赤な壁にあの斧が突き刺さっているではないか!思わず顔がジャック・ニコルソンになる。

 

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飛行機の中で見ていたから『2001年宇宙の旅』のコーナーは、感動が瑞々しい。冒頭のシーケンスの猿の着ぐるみに、宇宙船の内観、そして、なんてったってHALが私達を待ち構えている。

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地元のキューブリックファンが、HALを色んな角度から、色んな表情を何十枚も撮っていたのが微笑ましかった。そんな風景も、カメラの向こうでHALは薄笑いながら見ているんだろうなあと邪推する。キューブリック展を出ると、おみやげコーナーがあって、しっかりと"COMPUTER MALFUNCTION"と書かれたTシャツを購入。こいつはいい買い物だ。

 

この映画熱が冷めやらぬままに、いつか行きたかった”聖地”へ向かった。

 

続きます。