砂ビルジャックレコード

カルチャーの住民になりたい

映画館は月の上に(『ファースト・マン』観たマン)

ファースト・マン』を観た。

www.youtube.com

 

ファースト・マン』の作中に出てくる当時の日付に驚いてしまった。1969年7月16日、アポロ11号の打ち上げ日が50年前という事実に。ポルノグラフィティが「僕らの生まれてくるずっとずっと前にはもう」と言っていたけど、ほんとうにずっとずっと前だったのか。あれから50年経って地球と宇宙の心理的距離は近づいたと思うけど、地球と月の距離はあれから変わっただろうか?1000年も前に藤原道長が「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んだときから、ずっと月は遠い月のまま。

 

だけど50年前、確実に地球と月はつながった。その架け橋となったファースト・マンがご存知アームストロング船長だ。宇宙飛行士となったニール・アームストロングの月面着陸成功までの数年間を描いた伝記的作品だ。監督はデミアン・チャゼルで主演はライアン・ゴズリング。そう『ラ・ラ・ランド』のコンビである。L.A to the moon. あの高速道路はフロリダ経由で宇宙に続いていたんだ。

  

知識も判断力も体力も全て兼ね備えなければならない宇宙飛行士という選ばれし職業はまるで人類の生み出した傑作の人間ともいえよう。しかし、せっかく完成した宇宙飛行士はとても脆い。脆いというか、大気圏の外側が強すぎるのだ。未知なる宇宙への冒険の失敗は、指から血が出る、財布を落とすほどのダメージではない。自分の命や、はたまた国家としてのプライドまでも失くなってしまうレベルのものである。

 

「死」の描写も少なくない。昨日まで夢を語り合った宇宙飛行士の仲間が明日にはいない可能性だってある。ロマンを求める引き換えに目の当たりにする現実。文字通り前人未到のことだから我々がやっていることは、死に急ぐことなのかもしれない。愛する奥さんは子供と囲むテーブルで、そんなことを考えた宇宙飛行士もいるかもしれない。もちろん、ニールの歩んできた道も大成功ばかりではない。幾多のトラブルを対処しながら、宇宙でのミッションをこなしていく職人的な仕事っぷりと冷静さがなんだか頼もしい。

 

そして、アポロ11号の船長となったニールは「ファースト・マン」となる。ニールの苦難の道を知っているからこそ、月面への着陸、そして静かの海に、その偉大な一歩をゆっくりと踏みしめる瞬間に心が熱くなる。

 

観た回は、お年寄りのお客さんが多い印象だった。50年前のことだからリアルタイムで観た方も多かったんだろう。エンドロールの途中でおじいちゃんが何人も暗がりの中をそろーりそろりと足元を確かめながら階段を降りていた。まるで、ニールがアポロ11号から降りるように。こんなところに月面があったのか。

 

英雄、色好めど、我ら、透明好む(『フロントランナー』観たマン)

『フロントランナー』を観た。


映画『フロントランナー』予告2(2019年2月1日公開)

 

誰しも出たいTV番組ってひとつやふたつあると思う。テレビっ子の私は数え切れないぐらい出たいものがある。特に、トークゲストとして迎え入れられるものは、密着取材を通して、その人のこだわりや特異性などがふんだんに伝わる内容のものだ。前者で言えば、A-Studioや徹子の部屋、後者で言えば、情熱大陸やアナザースカイにプロフェッショナル。おじさんだけどセブンルールにも出たい。あわよくば自分の名前が急上昇ワードランキングに入ることまで夢見ている。

 

私が生きている限り、かつ、これらの番組が続いている限り、ワンチャンはある(と信じている)のだが、残念ながら出演の夢が叶わずに終わってしまった番組もある。その一つがトップランナーだ。ええ、このトップランナーと名前が似ている映画がやっていたので観たという流れでございます。ちなみにフロントランナーとは、劇中でも説明されるが「最有力候補」という意味を成す言葉である。

 

1988年のアメリカ大統領の最有力候補であった民主党のゲイリー・ハートは飛ぶ鳥を落とす勢いでその頂への道を驀進していたのだが、とある日に報じられたスキャンダルによって、没落の一途をたどる。追及を受けるゲイリー・ハートと、彼を守ろうとする陣営、彼らに対するはそのスキャンダルの真相を求めて取材を行う記者たち。この政治家とメディアとの攻防がスリリングで息を呑む。

 

「普通の人?次期大統領最有力候補だぞ?」という冒頭のセリフが頭に残る。大統領の候補となるなんて選ばれし者の世界だ。しかし、選ばれし者が聖人君子とは限らない。聖人君子が必ずしも政治がうまいわけでもない。なんなら浮気のひとつやふたつもしている方がよっぽど庶民の気持ちがわかる人間かもしれない。一体私達は、政治家などの人前に立つ人間に何を求めているのか、今一度考えさせられる。ただ数十年経ってもぼくらは清廉潔白な英雄というどこか相反する人間を待ち望んでいるのだ。

 

 

そういう意味で、ノースキャンダラスで透明性の高い私は、なにがしかの「最有力候補」になれる条件のひとつを満たしていると思うんだけどなあ。はあ、オファーを頬杖ついて待ってるのだけども来ないかな。はやくかっこつけてしゃべりたいよ。

 

平行感覚の欠如

この世に平らなんてない、と思っている。正確に言えば、平らを生み出す仕組みがわからない。道路や床、廊下。なにもかもが異常なものに思えてくる。当たり前のように平らな上を歩いているし、生活しているんだけども、そのことを考え出すとクラクラしてしまう。 

 

なぜ私以外の人間はこうも平らを生み出すことが上手なのか。平ら下手な私にとって死活問題なのがテイクアウトだ。まっ平らな弁当を家に持ち帰ろうとするだけで、私の生き延びる力はグングン低下していく。

 

最近のスーパーだとセルフレジが導入されているところも多くて、一連の購入動作を自分自身で行うのだが、平弁のときは命がけだ。買い物かごから取り出す時点から丁寧に平らに取り出し、バーコードを読み取る。一番の難関はレジ袋へ入れることである。あらかじめ袋を広げマチの部分をしっかり確保して、その平弁をそっと置く。すやすや眠った甥っ子をベッドで寝かせるがごとく。そして、ゆっくりと持ち手を掲げ、平行になったことを確認し、スーパーまで出る。ここまでは完璧。完璧だ。

 

自動ドアを出てからが最終ステージ。家までの数分の距離を歩く。幸運なことに今日は人通りも少ない。弁当の平行にだけ注意すればいい!赤信号で止まって、平行ぐあいを確認する。問題なし。青までの時間にスマホを見る余裕ができた。あとは3分の2ぐらいで僕の悲願は達成される。

 

あれ、あのテレビ番組、録画してたっけ?ふと未確認情報が浮かび上がって、もう一度スマホをチェックする。あら、もうすぐ始まるではないか。少し早足になる帰り道。もちろん急いでいるが頭の片隅には弁当の平行を気にしている。左手に異常はなし。かまわず進め。

 

家までは、あと1つの横断歩道。幸いなことに青信号。このままのペースで歩けば番組の放送には間に合いそうだ。歩行の回転数もあがってくる、、、おっと信号が点滅しだした。ちょっと小走りすれば間に合う距離だ。シャトルランでまだまだ余裕なやつみたいなペースで、横断歩道を渡り切る。小走りから早歩きに戻した瞬間、左手の違和感に気づく。そう、その時点ではゲームオーバーだったのだ。

 

逆バンジーのように縦になっているお弁当。もう、持ち手のバランスを整えても平らに戻ることはないことを確信した私は直に弁当を手のひらでつかみ、心の中では半べそをかいて家路を急ぐ。平行な家の床の平行なテーブルの上においたお弁当の白米はしっかり煮汁を吸っていた。ああ銀シャリが食べたい。