砂ビルジャックレコード

カルチャーの住民になりたい

全地球捜索型ミステリー(『search/サーチ』観たマン)

search/サーチ』を観た。

 


映画『search/サーチ』予告編

 

"しばり"のある映画にわくわくする。団鬼六的な意味ではない。映画の自由さにわざとルールを設ける映画だ。最近だと140分の映画がワンカットで進行される『ヴィクトリア』や、全編FPSのアクション作品『ハード・コア』などが代表的なものか。現代から振り返ってみると、昔のサイレント映画もひとつの”しばり”のある映画とも言える。

 

そんなしばり映画系に新しい傑作が誕生した。全編PC画面という"しばり"を設けた「サーチ」だ。気づけば僕らの生活における視線のほとんどは液晶に奪われっぱなしだ。たとえ映画を見るとしても、スクリーンより液晶を見るときのほうが多い日さえある。それでスクリーンに映画を見に行こうってなって、全編がPC画面なんてもうこれはMだ。デジタルマゾヒストを自称していい。

 

で、この最大画面のPCで行われるのは、娘の捜索である。深夜にかけてきた着信を残して突如消えてしまった娘のマーゴットを探すため、父親のデビッドは彼女の交友関係から手がかりを見つけようとする。なりふり構ってられない彼は、マーゴットのPCを使ってSNSのつながりや、過去の通信履歴から所在地を探していくが、個人のPCなんて秘密の宝庫だ。秘密の点と点が連なっていくと、そこにはデビッドの知らないマーゴットの姿が浮かび上がる。

 

まず、冒頭の10分ほどの映像がとにかく泣けるのだ。いきなり現在からでなく、Windows XPの画面から物語が始まるのが非常にニクい。良好な家族の象徴として画面上に現れるのは、世界一見られていたであろうあの野原とそれぞれの写真が並べられたアカウント選択場面だ。(そして、家族それぞれ変顔をアカウントとして選択しているのが◎)

 

ブラクラやフラッシュなどのPCあるあるもふんだんに盛り込みつつ、Macの画面になって話が始まる。XPの発売が2001年だから、ここ15年ぐらいのPCの歴史、遷移が表現されているとともにマーゴットが高校生になっていく様子を追体験できる。軽い親戚気分だ。そっか、XPは家族で1台の時代だったのに、今や個人のスマホで1台、個人のノートパソコンで1台が当たり前になったんだもんなあ。ああ俺も年取ったなあと、やがて絶滅危惧種になるダイヤルアップ接続経験世代はしみじみと時の流れを感じるのです。

 

そして、要となるミステリー部分も非常に重厚で張り巡らされた伏線がにハッとする。 そもそも探す主な手段がインターネットというのもミステリーとしては結構特殊ではないか。仮面ライダーWのフィリップ以来の解決方法ともいえる。

 

この探索中でもPCあるある(パスワードがわからない→昔使ってたフリメに届く→そのフリメのパスがわからない)などを踏まえながらデビッドはひとつひとつ真実に近づいていく。非常に巧みだと感じたのが、心情の表現だ。我々観客は第三者でありつつも主人公目線である画面を通して本編を知る。たとえば誰かにメッセージを入力して、送信ボタンを押す前のためらい、そして削除して平易な言葉に書き換える。本来の書き手の心情と、それを露わに出してはいけないという理性が、あのリライトだけで表現されるのがとてもクールだ。知らず知らずのうちにデビッドに没入している自分に気づく。

 

 

いっそ、全編PC画面で話が進むのなら、ブルーライトメガネで見るという誰にも伝わることのないボケをすればよかったね。(後悔)

 

Baby boy の生存確認

小池徹平が結婚したとのニュースを知る。あのヘアピンつけてた徹平くんがね…とごくせんを観ていた私はしっかり同級生面をかましているのだ。高校のときにヘアピンつけてかわいいアピールしてる男は、しっかり性欲あるから気をつけろよそこのTikTok JKよ。青いヘアピンより黄色いヘアピン、黄色いヘアピンより赤いヘアピンの方が手強いぞ。

 

Twitter上では感情をあらわにする人たちでまみれていた。この人達だけでハロウィンやったらきっと軽トラボコボコになるだろうな。スト2のボーナスステージみたいに。その怒りと悲しみを受け止める胸は持っていないけど、私はそっと、まだ私がいるじゃないかと伝えたい。もちろん小池徹平との共通点は高校のときにヘアピンをつけてたということである(私のときはごくたまにだが)。というか、徹平は役じゃ。

 

でもこの声は通じない。聞いてない。聞くはずもない。みんなうつむいて、イヤホンをして人のような動きをする動物の動画を観ていたらそんな悲しみさえ行ってしまうのだ。舌出してはあはあするだけでかわいいと言ってもらえるアドバンテージを世のお父様たちにも与えて差し上げてよ神様。

 

ぼくはここにいるよ。ここにいるよ。と、悲しんでいる人に言って(念じて)、振り向いてくれる人がいたらいたで、それは恐ろしい。幽霊の「ぼくのことが見えるの?」と同じテンションで驚かなければならない。あたふたした私はきっと、魂を借りて「お前の方は元気か?ちゃんと飯食ってるか?」ぐらいの生存確認をする勇気は持てるだろう。沈黙が数秒流れた後に、お互いに後悔して、はなればなれになっていく。これをラブソングにしてもいいですか?

 

www.youtube.com

度肝を抜いたお金の使い方をしはる(『クレイジー・リッチ』観たマン)

『クレイジー・リッチ』を観た。


映画『クレイジー・リッチ!』予告編

 

金持ちになりたい。湯水のようにお金を使っても怒られない存在でありたい。要らなくなったものはしっかりリサイクルするから、その分気の済むまで物欲を満たしたい。すごい大きいプールを独り占めしたい。あ、でもじいやはそばに居てほしい。すぐお水をくれるじいやがほしい。じいやは元ホテルのシェフで彼の作るオムライスがこどもの頃からの大好物という人生でありたい。そういう記憶を植え付けたい。金の力で。あと、コンビニで諭吉を消費したい。

 

金持ちでない者からして、金持ちになったら、、というifは想像力が試される質問だ。金持ちでない者の想像はたやすく負けてしまう。なぜなら本当の再現のない金持ちができることは「それ、金で買えんの?」というものを金で買ってしまう、満たしてしまう。そもそものものさしの当て方が異なるのだ。という気づきを『クレイジー・リッチ』の冒頭はガツンと教えてくれる。

 

シンガポールの大富豪ヤン家の御曹司ニックを彼氏に持つレイチェル(アラサー大学教授)がこの作品の主人公である。主人公と書いてシンデレラとでも読もうか。家族に紹介したいというニックの誘いを受けてシンガポールに行くのだが、そこでレイチェルが目にしたのはセレブの世界。ヤン一族の豪華さ。ニックをめぐる女の醜さ、そしてラスボス・ニックのお母様、バチェラーの彼女となったレイチェルに様々な試練が襲いかかる。

 

そう、度肝を抜いたお金の使い方をしはる。関西弁の敬語も使いたくなるぐらいに遠い存在だ。えげつない船上パーティー、女性心をこれでもかと掴む島でのパーティー、え、何坪なん?と聞くのすら憚れる大会場でのパーティー、そして社交社交社交。ここまでぶっとんでいるとむしろ清々しい。比べることなどナンセンスなのだ。

 

とはいっても、金持ちと僕らの共通点はある。それは人間であるということ。恋に嫉妬に友情にもう大変。vsニックを狙う女たち vsお母様のストーリーラインもアツい。特にお母様との戦いが見ものだ。私は恋人の父親に挨拶をするという経験がないが、恋人の同性の親との間に流れる妙な空気の冷たさ、美味しくなさが存在することは知っている。お金があろうがなかろうが、本質的なところは変わらないところにホッとする。

 

そんな愛憎の中を生き抜くレイチェルのたくましさが愛おしい。バトル漫画ではないがこういうシンデレラ・ストーリーにも「覚醒」を示唆するシーンが存在する。レイチェルの才能が一気に目覚めたときの華やかっさたらもう。 2000円程度払ってこの映画を観た小市民のわたしたちは黙ってポップコーンを頬張りながらその覚醒にニヤニヤせざるをえないのである。