砂ビルジャックレコード

カルチャーの住民になりたい

なんかいろいろ(KOCとか岩手旅行とか)

ゲッターズ飯田の占いを信じるとすれば、私はこれから人生の冬の時期に差し掛かるらしい。恐ろしい。これからもっと人生が寒くなるというのか。まだ、西麻布の隠れ家的バーに行ったこともないし、パリッとしたスーツも着てないし、キリの良いチャンネル登録者数もいない(そもそもチャンネルはじめていない)。耐え忍んで伝統工芸でも極めてみたい。

 

キングオブコント2018、結果からいえばハナコの圧勝であった。煽りVであらかじめ自分らのコントスタイルの手の内を明かした上で優勝するというなんともかっこいいことをやってのけた。2人の掛け合いの途中から3人になることで、畳み掛けを生みやすくしている。よくトリオで使われる「小ボケ」「大ボケ」という概念を壊してしまったのだ。「先発ボケ」「切り札ボケ」という名称が好ましいか。

 

チョコプラは2本めのネタで、小道具に頼りすぎてしまった。「昔気質の大工なのに、働き方が超現代」というネタだったが、そもそも、このコントをどう見たらいいかわからないまま終わってしまった。カタカナビジネス英語を日常でも使うような人が会場にはいなかったのは考えなかったのか。あんなん、30代のサラリーマンにやったらもっとウケそうなのにな。しかしあんな小難しいことコントもやる一方でTT兄弟も発明するなど、とにかく多彩だ。多彩のTだ。

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個人的にはGAGの正統派トリオコントも好きだ。童貞男子学生の青春を描ききったのは素晴らしい。大人の女性と苦味を知って少し成長するあの時間に文学性さえ感じる。居酒屋の美人社員キャラクターのクオリティもすごいリアリティ。髪色やアイコスもそうだが、彼女の哲学まで透けて見える。あの居酒屋、絶対お刺身が美味いって。きっちりコンプライアンスも守っているのに点数低いなんて。

 

ザ・ギースのネタももう少し得点行っても良かったのかなあ。しっかり転調が効いていたし。その部分で緊張を煽ってからの「作り手の想い」が再度浮かび上がる瞬間は今でも思い出してしまう。サスペンスをコントにしているのだし自然な展開だと思うんだけどなあ。

 

ひとつキングオブコントに言いたいとすれば、 決勝進出者当日発表の件だ。賞レース大好き野郎からすれば、意味がわからない。M-1の順番の当日決定もそうだが、誰がどの順番でやるというのを想像して、誰が勝つのか山場がどこにくるのかを想像するのが楽しいのに。

 

そんなイライラを心に残しつつ、9月の連休には岩手は花巻と平泉に行っておりました。東京を離れてゆっくりしたいというそこそこランクのキャリアウーマンみたいな欲望が芽生えてしまったものですから、それを叶いにいってきたわけです。

 

花巻では宮沢賢治記念館へ。宮沢賢治記念館は山の上にあって、駅から徒歩で行くと数百段の階段を昇っていったところにある。

 

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この1段1段に「雨ニモ負ケズ」の文字がついており、昇りながら彼の詩を堪能できるというつくりになっている。しかし、残り20段程度で詩が終わってしまって「お」「つ」「か」「れ」「さ」「ま」「で」「し」「た」となっていた。太ももの乳酸にも負けずここまで来たというのに。

 

 

平泉では世界遺産巡り。駅にレンタサイクル屋さんがあって、そこで自転車を借りて周辺施設をめぐる。久々の自転車におろおろしながらも、平坦な道の多い平泉を疾走する。気候も過ごしやすかった。北側っていいよね。

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大人はこどもの延長線(『ブリグズビー・ベア』観たマン)

『ブリズグビー・ベア』を観た。


『ブリグズビー・ベア』 6月23日(土)公開!

 

まだ自我がふわふわした頃に観るこども向けテレビ番組の影響力はとてつもない。だって私がそうだもの。眠い目をこすりながら、母親の焼いたトーストを食べながらポンキッキーズを観る。食事と鑑賞を一度にできず、トーストを手から落として母に怒られる。そんな日の繰り返しだった。

 

ポンキッキーズの全員集合のオープニングはわくわくしたし(あれがスチャダラパーのイントロと知ったのは大人になってからだった)、何回も8時8分を連呼されるのは幼心にムカついた。ピエールは俳優でも電気グルーヴのメンバーでなくポンキッキーズの人。

 

得てして、子供番組というのは「偉大なるマンネリ」である。カルト的な雰囲気を漂わせながらある程度のフォーマットを繰り返し観ることで、こうやって僕たちの心に残っていく。『ブリグズビー・ベア』はこの映画の幹となる子供番組のタイトルで、主人公ジェームスは、この独特の世界観の虜となった一人だ。っていうか唯一その番組を知る人間であった。というのは、この『ブリグズビー・ベア』は幼かった頃の彼を誘拐した男(=つまり彼から見れば父親となる)が彼のためだけに作った番組だったのだ!

 

この父親役だった男の愛情よ!倫理的に見たら感動してはいけないのかもしれないが、つくり手の愛情を感じる番組なのだ。どこかで見たことのあるキャラクターが出てきたり、悪役もサン・スナッチャー(太陽泥棒/息子泥棒)とダブル・ミーニングしているのにもニヤニヤしてしまう。

 

その両親”だった”2人は捕まってしまい、もうこの展開で映画が終わるんじゃないか?ぐらいの衝撃から、ジェームスの新しい物語が幕を開ける。結果的に”親”を失ったジェームスだったが、頭の中に残るのは『ブリグズビー・ベア』のことばかり。そして彼はある決断をするのだ。そうだった、こどもの続きは大人だった。

 

新たな世界に投げ出されたジェームスの新鮮な表情も愛おしいし、そしてジェームスを受け入れる新たな世界側の人々も愛にあふれている。ジェームスが激推ししている『ブリグズビー・ベア』がいつのまにか友人の中でシェアされて、そしてYouTubeで拡散されていく描写も非常に現代的だ。

 

そういえばポンキッキーズのオープニングもYouTubeで検索してたよ。あのとき観ていたこどもたちはいなくなったけど、いなくなったわけではない。同じ画面を見ていた大人がいるだけでなんだかほっとする。安室ちゃんもランランもかわいかったよなあ。

 

ポンキッキーズ・メロディ

ポンキッキーズ・メロディ

 

 

 

シアーシャ・ローナン大好きおじさん(『追想』観たマン)

追想』を観た。


映画『追想』予告編

 

 

レディ・バード』を観てから、シアーシャ・ローナンというアイルランドの俳優を好きになってしまった。(『ブルックリン』の主演だったことはあとで知った)私のみならず人々の心の悪の部分を見抜いていそうな青い瞳に惹きつけられる。

 

Wikipediaで知ったがシアーシャ(saoirse)とはゲール語で「自由」を意味するとのこと。もうそのエピソードだけで私の声帯は「最高」と震える。ローナン家最高だ。お父さんお母さんによろしくお伝えください。

 

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そんなシアーシャ・ローナンの最新作を映画館でやってるというのだから、見に行くに決まってる。『追想』は、1960年代のイギリスが舞台の切ない恋の物語だ。

 

新婚旅行に行った二人がなぜ悲しい選択をしなければならなかったのか、二人の馴れ初めから決断の時まで、走馬灯のように話が駆け巡る。二人の考えの違い、価値観の違い、それは些細なものなんだけども、その違いこそが致命的なものになる。誰しもが大小あれど一度は経験する「あのときのあの言葉がなければ、、、」的な瞬間を繊細にかつドラマチックに描いている。

 

結婚やらそれに近い経験はないけれど、二人のすれ違いには、出会うまでの人生(例えば家族とか)が関係するんだなあ。ふと「セロリ」の歌詞を思い出す。育ってきた環境が違うから、、、ってすごい達観した目線なのね。

 

ハッピーエンドの恋愛映画よりもこういう失恋の話のほうが記憶に残るのは、自分のものと勝手に関連付けてしまうからなのだろうか。恋愛下戸は世界中にどこにでもいて、失恋なんかありふれたものであると気づかせてくれる(とはいってもとても悲しい結末は見たくないのだが)。

 

「男は別ファイル保存、女は上書き保存」の恋愛ことわざを用いるのなら、まさしく「追想」はこのことわざを映画化したようなものであり、保存方法の違いの結果が可視化されたような作品でもある。そう簡単に保存方法なんて変えられないんだから、受け入れるしかない。

 

それにしても、シアーシャ・ローナンの醸し出す色というかオーラは素晴らしい。この間の「レディ・バード」でも印象的であったターコイズブルーの色使いがこの「追想」でもよく使われているのは偶然なのだろうか。

 

空と海と草木が混じったようなターコイズブルーのドレスを着て世界遺産のチェシル・ビーチに悲しく佇むシアーシャの姿を見て胸が痛くなる。悲しくさせてしまったことを全男性を代表して謝罪したい。こんな極東の男が謝ったって力不足かもしれないけど、やれるだけがんばってみるよ。だって単純に君のこと好きなのさ。

 

『ブルックリン』も見てほしい。

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