砂ビルジャックレコード

カルチャーの住民になりたい

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気になった言葉や言い回しがあると、携帯のメモ帳に入力する。「なんだかこれは言葉の響きがいいから、今度友だちに使うタイミングがあったら使ってみよう」とか「韻が気持ちいい」とか「美味しいご飯屋さんだから」というものもある。物欲のゲインを最大に高め、ブックオフでワゴンから漁るように、メモ帳に言葉を積み重ねる。

 

ペクチーニは悩んでいた。この夜が明ければ母の葬式なのに哀しいという感情が全く湧かないのだ。親しい友人であるモンモが父親を亡くしたとき、葬式でモンモは見たことがないような泣き顔で、聞いたことない大きさの泣き声で哀しんでいた。ペクチーニは、そのモンモに同情し泣いたことを覚えている。親友の父親の死なら哀しめるのに、実の母親の死に対して、感情は何も答えてはくれない。

 

困ったことに、そのメモ帳に残した言葉が膨れ上がってきて、自分でも処理できないほどになっている。一瞬のひらめきみたいなもので入れていることが多いので、「なぜこんな言葉を入れたのだ」と、見返してみるとよくわからないものもある。ただ、その言葉にはたしかに熱があった(はずだ)。そういうことを考えると、なかなかその言葉を削除できない。積もり積もってメモ帳というより言葉のガラクタ箱になりつつあるのが現状だ。

 

曇り空からわずかに見える月をぼんやり見つめる。子供の頃、人が死んだら星になると、母が言っていたことをペクチーニは思い出す。あの頃からあまのじゃくな性格で、母親の創作した話も信じなかった。死んだら星になる話をする前にお墓に連れて行く母もよくないと思う。でも、今日ぐらいはあの母の話を信じてみよう。ここから月に行くのにどれくらいかかるのだろう。おっとりしていた母だから、普通の人より時間をかけて月にたどり着くはずだ。曇ってて歩くには適していそうだ、と思うとペクチーニは自分の感情が少しだけ柔らかくなりつつあることに気づいた。なんとなく月が輝き出したが、ペクチーニはそれを信じることにした。

 

メモ帳もいくつかに分けているのが良くないのかもしれない。整理整頓せずにとりあえず入れているからだ。(しかし、整理整頓したらメモ帳じゃなくなる、という気持ちもある)メモ帳のデータを横断し、なんとなく紐付いた瞬間に、その言葉たちを近くに置くようにした。これですっきりするんじゃないかな。

 

それにしても、黄金色というより銀色のような月だ。ペクチーニは茶を飲む。銀色の月は白くなり、ある一部分だけ光り出す。ペクチーニが茶を飲み干したときには月全体が光り出し、月から白い光の点がいくつも飛び出して、だんだんと大きくなっていく。ペクチーニは、月の異変に気づいたが母親のことを想いたかった。そんな自分でありたかった。大きくなる光のひとつが、ペクチーニの眺めていた空を包み、その光の中から人間、人間にしては頭が異様に長細い二本足のいきものが降りてきた。

 

少しずつメモ帳をまとめていくと、埋もれ続けていた言葉たちに出会える。昔の私はこんなことを考えていたのか、もしかしたら昔の私のほうが切れ者だったのかもしれない、なんだか言葉の同窓会に出席した気持ちだ。その言葉の中から今、使いたくなるものを拾い出すのが楽しかったりする。ペクチーニ、お前は一体どういうやつだったんだ。

 

 

新涙腺映画(『新感染 ファイナル・エクスプレス』観たマン。)

『新感染 ファイナル・エクスプレス』を観た。


「新感染 ファイナル・エクスプレス」予告編

 

ゾンビ映画って体操種目や課題曲的な一面があると思う。規定演目のように「ゾンビ」「逃げ方」「倒し方・やられ方」「束の間の休息」「ショッピングモール」のように、ゾンビ映画たらしめる要素や形式をふんだんに散りばめながらも、そのゾンビ映画ならではの個性が求められる。観る側も「はあ、こういう解釈なのかー」という気持ちよさを探していたりする。そういうゾンビ映画というジャンルにおいて、この『新感染』は、また新しい感覚を我々に提示してくれた。

 

主人公はファンドマネージャーのシングルファザー、ソグ。ひとり娘のスアンを別れた妻に会わせるため、特急列車に乗って(新幹線ではない)釜山に向かおうとしたとき、その列車にひとりの“感染者”が乗ったことから、物語が始まる。電車の中でゾンビに出くわすという絶望的状況である。

 

この、「列車」×「ゾンビ」という設定をふんだんに生かしているのが最高だ。ゾンビを倒すには、脳漿を銃で狙うなどのセオリーがあるが、特急列車になんてライフルなんてない。そんな状況下でどう彼らがゾンビに襲われずに逃げるか、乗り合わせた乗客のアイテムや、列車という狭いスペースを活かした戦い方、そして新感染におけるゾンビの特性を理解した生き残り方も素晴らしい。なるほど、そういう逃げ方もあるのかと、唸ってしまった。わたしも東京から新大阪ぐらいまで逃げれるのではないかという軽い希望が湧いてくる。(と、同時に朝の満員電車で遭遇したときの絶望さもイメージした)

 

そして不思議なことに、ゾンビ映画なのに泣けてしまう。私が観に行った映画館でもすすり泣く声が聞こえてきたほどだ。通常のゾンビ映画でいうジーンとくるポイントといえば、実は噛まれていた、愛する人を守るために自分の命を犠牲にする、生還したあとのかすかな清涼感、が挙げられるが、その通常文法を超越した切なさが「新感染」にはあるのだ!ソグとスアンの親子の関係性も重要な見どころであるし、その他、列車に居合わせた不特定多数の人物たちが持っている愛のかたちが、さまざまな展開を生み出していく。

 

ゾンビの脅威やスピードをあげる列車という舞台にハラハラしつつも、人情的なドラマでウルウルさせやがる非常に計算された映画だと思う。主人公の職業(ファンドマネージャー)も、しっかり伏線として生かしているのが抜け目ないぜ。

 

 

 

 

 

あながち間違いじゃない(『散歩する侵略者』観たマン)

散歩する侵略者』を観た。

www.youtube.com

 

今作は、昨年観た『太陽』と同じイキウメの戯曲が原作である。これは見るしか無いぞ!と固い決意を胸に映画館へ向かった。おらたちのまさみも出てるのだ。まさみ、俺だ!

 

takano.hateblo.jp

 

ある町が舞台の静かなSF作品。数日の行方不明の後に、帰ってきた夫は別人格になってきて帰ってきたことから物語は始まる。夫は“宇宙からの侵略者”となっていて、町をふらふらっとさまよいながら、周りの人々を侵略していく。その侵略された夫役が松田龍平で、突然のキャラチェンジに戸惑いながらも伴侶の努めとして支える妻がまさみである。

 

なんといっても松田龍平の“異星人感”っぷりが絶妙だ。街中で、「あ、この人の中に今、魂が入っていないな」という人とすれ違うことがある。まさにその人物の表情で、松田龍平は淡々と侵略をしていくのだ。「魂が入っていない」を「何者かに侵略されている」と言い換えてもあながち間違いじゃない。

 

侵略といっても決してフィジカルだけに頼らないのがこの侵略者たちの特性だ。彼らは人間の“概念”を奪って侵略への下準備を着々と進めていく。この“概念”というものを奪うという発想がいかにも戯曲的である。さまざまな概念を奪取する瞬間も描かれているのだが、概念を奪われた人類のリアクションもたまらない。

 

私が、この侵略者たちに不幸にも遭遇し、概念を奪われたらどうなってしまうのだろう。そしてどんな概念を奪われてしまうのだろう。“概念”という概念を奪われたら、その他の概念の器がすべて壊れ去り、私は犬のように野垂れ死ぬのだろうか。私は、血の通った概念と言ってもあながち間違いじゃない。 

 

とにもかくにもこの映画では、牧師の東出昌大さえ見ていれば元取れたと言ってもあながち間違いじゃない。