砂ビルジャックレコード

カルチャーの住民になりたい

テラスの男女は大体ヤバい(『At the terrace テラスにて』観たマン)

『At the terrace テラスにて』を観た。


映画『At the terrace テラスにて』予告編

 

岸田國士戯曲賞を受賞した『トロワグロ』 という舞台を映画化した作品。舞台が原作という映画は数多あるが、特筆すべきなのは、映画版と舞台版の出演陣がまるっきり変わらないということである。(鑑賞後に舞台挨拶があって、山内ケンジ監督が本作品を当て書きしたということも言っていた。)映画と舞台をいいとこ取りしたに作品となっているのだ。

 

見た後に気づいたのだが、そういえば私は山内ケンジ監督作品を観ていた。『友だちのパパが好き』、この作品も怪作だったなあ。

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専務が開催したホームパーティーを舞台とした、“密室劇”。7人がテラスで会話するだけ(テイラーは流れないし、副音声で山ちゃんが罵詈雑言を散らかさないけど)なのだけど、確実に打ちのめされました。会話のズレが解釈のズレを生み、関係のズレを生む。ただ、ズレることで奇跡的に、それがハマる瞬間ができたり。。。と、シームレスな状況の変化に一言一句聞き逃せなくなる。

 

テラスという場面設定がやっぱりニクいよね。パーティーという建前の見本市に対し、その会場の外側部分で、明らかになる参加者たちの本音。その見てはいけない部分を見てしまっている背徳感も効果としてあるのだと思う。7人の関係性も非常に緻密だ。主催者家族、遅れてきた参加者、同じ苗字の人、、、各人の個別の関係性によって地獄のような(第三者としては最高なんだけどね)時間が繰り広げられる。帰り道に、この映画を頭の中で反芻してみたけれど、よく考えてみれば、登場人物が穏やかにヤバかったなあ。メンタルもフィジカルも。

 

別の映画を持ち出すのは野暮かもしれないけど、『キサラギ』がお好きな方は、この映画に絶対ハマるはずかと。関係ないけど、一度でいいからみんなでキサラギのエンドロールの振りコピやりたいよね。もちろん喪服で。

 

 

ドラン大好きおじさん(『たかが世界の終わり』観たマン)

『たかが世界の終わり』を観た。

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私の最近好きな監督、グザヴィエ・ドラン師匠の最新作の公開日がとうとうやってきたのです。この日のために仕上げ(初回上映をいい席で予約)てきました。少しの眠気を残しながらも、テンションは上々。

 

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ドラン、おれだー! #movie #itsonlytheendoftheworld #xavierdolan #たかが世界の終わり

 

劇作家のルイは、家族に“あること”を告げるために、12年ぶりに帰郷する。そのルイを出迎える家族(母親、兄、兄の妻、妹)との、ある1日を切り取った物語。見ているこちらも息苦しくなるほどの濃厚な密室劇。

 

じっくり物語がすすむので、その世界に入り込むのは難しく感じたが、振り返ってみればわかりやすい物語構成であった。冒頭にルイが帰郷し、家族と再開するパートでは、登場人物とルイとの関係性をきっちり紹介。そのあとルイと各キャラクターとの1対1の会話で、そのキャラクターの想いが明らかになり、物語が加速していく。

 

母親のマルティーヌは、ルイが帰ってくるにあたって食事でもてなすのだが、これが物語の大きな流れを作る効果を担っている。オードブル、メイン、デザートと“三幕構成”で、調理中に物語がじわじわ動き出し、(お母様がたっぷりと時間を費やして料理をなさる)家族全員が揃うと、その物語がひとつクライマックスを迎える。その仕組みが実に緻密なのだ。恐るべしドラン師匠。

 

不思議なのが、主人公であるルイが“徹底的に受け身なコミュニケーション”をとっていることである。ある決意を持って帰ってきた主人公なのに。ルイの周りにいる人々が、ルイをきっかけに騒ぎ出す物語なのである。そう考えると、あくまでもルイは、この物語における触媒にすぎないのかもしれない。

 

ただ、一方であまりに受動者なために、この空間におけるもうひとつの受動者=観客とリンクするはたらきがあるのではないだろうか。なんだか私は、決してルイに感情移入しきってはないけども、想いや考えを不器用に伝えてくるルイの家族に、心がズドンときてしまう。特に1対1の会話パートで胸が詰まってしまう。『たかが世界の終わり』の世界にどっぷり浸かりながら、ふと、自分の家族と、ルイの家族をうっすら重ねてしまっている私がいることに気づく。ルイのような状況で、我々は家族に何を求めるのだろうか。

 

そして(ドラン映画では当たり前ではあるが)劇中でかかる音楽が今回もかっこよくてかっこよくて!日本でも流行ったO-Zoneの「恋のマイアヒ」など耳馴染みのある音楽も流れるし、重苦しい密室劇で清涼剤のような役割も果たしている。毎度のことながら、音楽と映像(相変わらずの色彩に惚れ惚れするが、特に青色の美しさ!)のマリアージュに酔いしれる。はやくサントラを買いに行かなければならない。

 

ドラン大好きおじさんとしては、兄のアントワーヌと、『トム・アット・ザ・ファーム』のフランシスとの共通項とかを考察したら楽しいんだろうなあなんてニヤニヤしながら、このブログを締めくくりたいと思います。

 

 

 

あ、あとこれだけ言わせてください。レア・セドゥみたいな妹がいてほしい。

 

なんかいろいろ(読書とかドランとか)

やや睡眠不足だ。この歳になっても24時間の有効な使い方がよくわかっていない気がする。あと2時間あれば、、、なんて毎日思ってるけど、あったらあったでその2時間は睡眠に費やされるのだろう。心と身体が求める欲求に乖離が見られる。録画している番組が溜まっている。カルテットをまだ1話も見れていない私をお許し下さい。そして再生ボタンを押すための小さな勇気もください。

 

時間の無さを嘆いてるけども2月なんて、28日しかない!短期勝負もいいところ。そういえば、昔は稲作作業や農作業が中心の文化だったので、暖かくなる3月から30日=1ヶ月で数えていったために、2月は余り物の日にちでできた月なんていう話を聞いたことあるけど本当なんでしょうか。

 

本の話をさくっと。私は基本的に併行して本を少しずつ読むタイプ(なので、カバンは本でパンパン)なのですが、直木賞をとった「蜜蜂と遠雷」は最後の300ページ分はほとんど一気読みしてしまった。

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

 

 縁もゆかりもないピアノコンクールの世界なのに、読みやすい。その頂点に極めることを許された数少ない神童たちの友情や、圧巻の演奏が文字なのに伝わってくる。小説なのにマンガ的なイメージができたり、音・動画的なイメージが私の脳内で作成される。文字の力、恐るべし。この小説は大きく4人の主人公がいるんだけども、最年長コンテスタントの高島明石に感情移入。スラムダンクといえば文句無しで木暮くん推し(次にリョータ)の私にとって、この明石のストーリーは本当にたまらなかった。明石の“結末”を読んで、おじさん大号泣。この小説、ドトールで読んではいけない。

 

話は変わって、私の好きな映画監督のひとりであるグザヴィエ・ドラン監督の『たかが世界の終わり』がもうすぐ公開されるのです!公開のために仕上げなければということで、まだ観てないドラン作品(『マイ・マザー』、『トム・アット・ザ・ファーム』)を借りて、“ひとりドラン映画祭”をしたのであります。

 

一貫して「母親との確執」や「同性愛者として生きる世界の閉塞感」をテーマにしていて、特に初期の『マイ・マザー』はそのテーマが色濃く出ていた。ただ、なんとなく違和感を覚えたのは同性愛者に対する風当たりの強さ。今も強い部分はあるけども、やはりLGBTという言葉が流行った現在だと、劇中の一部の登場人物の感情に納得しにくくなっていた。『マイ・マザー』が2009年の作品だから、たった8年で変わる世界の感覚と、自分の見方に気づく。

 

予習もしっかり終えて、『たかが世界の終わり』は公開日に観に行く。(もちろん席もおさえた!)冷たい風に吹かれながら、Wonderwallを口ずさんで映画館まで行けたら最高だ。

takano.hateblo.jp