砂ビルジャックレコード

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最後にやり残したこと(『火口のふたり』観たマン)

『火口のふたり』をオンライン試写会で観た。

 

www.youtube.com

 

恋人だった人のSNSのアイコンが、突然ウェディングドレスを着ている写真になっていたことがある。その人とは連絡もしばらくとっていなかった。結婚を決めた人がいること、その彼がどんな人間なのかなんて知る由もなかった。ただ、これは自己中心的な思いだけど一言だけでも自分に言ってほしかった。かといって、その理想の状況になったら自分は、引き出しの奥からホコリまみれの未練を取り出して、次の行動にうつしてしまいそうになる。だから、何も言ってくれずに結婚してくれたほうが正しい。

 

『火口のふたり』は結婚を控える女性・直子と、過去に関係を持っていた男・賢治のたったふたりだけが登場する映画だ。直子の結婚式のために、賢治は秋田へ帰郷する。そこで久々の再会を果たしたふたりは、思い出話に浸りながら、一夜だけと、過去の関係に戻り始める。直子の結婚相手が帰ってくるまでの5日間のモラトリアムの話だ。

 

アメリカでは独身最後の夜を友人たちでハチャメチャに過ごすと聞いたことがある。『ハング・オーバー』みたいなイメージだ。それに比べて、この『火口のふたり』は男女二人だけで行うバチェラー・パーティーのように感じた。結婚したら、二度とこの関係に戻れない。人生におけるひとつの最後を惜しみながら作中のふたりは何度も愛を重ねていく。

 

「最後にやり残したこと」というと、大げさだが、やることは決まっている。ふたりで食事、ふたりでお風呂、ふたりでセックス。そして、イレギュラーに起こる限りなく小さな事件。そこにあったはずの日常が映し出されるが、なんとなく世界の終焉が迫りくる暮らしに思える。東京のような人混みにまみれている描写はほとんどなく、秋田という地方都市が舞台というのも影響しているのかもしれない。終わりゆく幸せを感じながら食べるアクアパッツァが美味しそうであった。(このときに、私はアクアパッツァを作れる人間になりたいと固く誓った)

 

最少人数で共有している世界だからこそ、この物語が進むにつれて明らかになる事実は衝撃的だ。時折、説明的なセリフもあるが、この作中の2人だけが知っている世界は、第三者の観客が知った事実よりも、もっともっと濃密で暗くて、そして美しいのだと思う。

 

 

After the #TANKASONIC 2019

今年もTANKASONICという大規模な短歌のフェスがありまして、参加させていただきました。好きなアーティストを1組選び、愛を込めた5首を発表する企画。私は、フィメールラップデュオのchelmicoをテーマに短歌を作成しました。私のchelmicoのハマりっぷりはこのあたりを参照。

 

takano.hateblo.jp

 

そして、発表した短歌はこちらです。タイトルは「chelmiconori」です。

 

 

帰り道 右旋回し薄暗いフロアの隅から本編開始

 

小刻みに背とハイライト揺れている ラジオの光の下でLate Night

 

ランダムで惑星ゼーベス バニラバーほおばりながらマジギレしてる

 

ねえパーシー世界を回してこの揺れでどこでも行ける今日はハワイへ

 

終電で読む星占い当たってて涸びた瞳の奥からドゥザナイ

 

 

ラッパーということを考えて、二句目と五句目で必ず韻を踏むという条件を自分に課して、作りました。1首目は比較的わかりやすくて、「みぎせんかいし」と「ほんぺんかいし」で刻んでいます。

 

2首目、3首目はそれぞれMC mamikoMC Rachelを意識して作り上げました。踏んでる韻もmamikoなら「あ・い・お」、Rachelなら「え・い・え・う」で縛っています。本人の名前を出さずに、韻で立ち上がらせる。これが今回の連作の中でやりたかったことだったりします。ゲーム好きのレイチェルということをイメージしてたどり着いた「惑星ゼーベス」(スマブラのステージ。酸がせりあがるギミックですごいストレス溜まる)が一番のお気に入りワードです。

 

4首目、5首目は入れたい言葉を軸にchelmico全体の世界観を補足することを目的に作ってみました。「ドゥザナイ」という言葉は『ラビリンス'97』という歌に出てくるのですが、未だに正しい使い方がわかりません。この用法であってるんでしょうか。

 

さいごに、今日はchelmicoの新アルバム「Fishing」のリリース日ということで、早速聴き倒しております。ああ、このアルバムをもとにした短歌も作りてえ。Takanori Takanoでした。

 


chelmico「Balloon」

 

 

今日も夏のどこかで(『Summer of 84』観たマン)

『Summer of 84』を観た。

 


SUMMER OF 84 Trailer (2018)

 

「大人になる」って「物事を知りすぎってしまった」ことだと思う。日々の生活の中で、自分の所属する社会の答えや常識を知っていれば大抵のことはやり過ごせるわけで、だけども、その答えや常識に固定されてしまう副作用が起きる。それ以上の「なぜ?」「どうして?」という疑問に行くことさえも出来なくなる。進路だけじゃなくて思考回路までもだんだんと絞られていくのが大人なんじゃないか。

 

その分、子供は知らないことが多いから、好奇心旺盛だ。(知りすぎる状態の前段階だ)成長するにしたがって、見える世界もどんどん変わっていくし、行きたい世界に行けるようになっていく。そうして、子供たちは冒険に出る。とはいえ、車の運転までは出来ないから自転車という最強の武器を手にして、近所の周りの謎を明かそうとする。

 

 この『Summer of 84』は文字通り1984年の夏の話だ。アメリカのオレゴン州のとある郊外が舞台。思春期の子どもたちをターゲットにした連続殺人事件が起こっており、この郊外に住む少年のデイビーは、隣に住む警察官のマッキーが殺人鬼ではないだろうかと疑心に思ったところからひと夏の冒険物語が始まる。

 

デイビーは同い年の友達とともに、マッキーが犯人である証拠を探そうと、"捜査"をはじめる。オカルト好きな少年デイビーの推理は信じられないが、もしかしたら犯人かもしれない...と煽る演出に息を呑む。ちなみに、この映画のキャッチコピーは「連続殺人鬼も誰かの隣人だ」うーん、たしかに背筋が冷たくなる言葉だ。そういえば少し前にも、日本でもシリアルキラーのニュースが報じられていた。いまの僕らは隣人の顔も知らない。

 

物語の冒頭で、デイビーがマッキーと一緒に地下室へ物を運ぶシーンがあるのだけど、その場面での違和感の作り方から映画の中に魅入られてしまった。地下室で連続殺人といえば、ジョン・ゲイシーが思い浮かぶ。ゲイシーのように、社会的に立派な表の顔とは違う、どす黒い裏の顔がマッキーにはあるのではないか、と、どこかでこじつけだらけのデイビーの推理を観ていくうちに信じてしまいそうになる。

 

果たしてマッキーはシリアルキラーなのか?そして、犯人が判明したあとに、怒涛の展開が訪れる。ここからがクライマックスだ。目をつむってやり過ごしたいほどの衝撃に放心状態となった。

 

「大人になる」ことは「知りすぎる」ことだ。今日も夏のどこかで、想像もしたくない事件が起きている。そこで知ってしまった、知りすぎたことを共有できずに大人になった人がいる。僕らはそういう大人たちと同じ世界を過ごしている。